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谷田川惣氏の真正護憲論(新無効論)についての批判「英米法学とドイツ系法学」に対し、憲法学の見地から、簡単ながら反論した。


ーーー 以下引用 ーーーー


一方、ドイツ系法学でいう「法の支配」とは、あらゆる権力機関が

憲法制定意思に基づいて作られた法律に服さなければならないということ。



ーーー 引用ここまで ーーーー


まず、大陸法(フランス・ドイツなどローマ法の影響を受けた諸国の法律学。成文法主義による。)におけるRechtsstaatとは、法治国家と翻訳される。

ここにおいて前提されている「法治主義」とは、19世紀後半のドイツで発達した概念で、國民の権利義務を定めることは、立法権によってなされねばならず、行政権及び司法権は、法律の定めるところに従ってのみ、その権限を行い得るもの、という意味である。

実質的にいえば、主権者の「意思」に従って、その思いのままに立法の内容を決定でき、それを制限する力は存在しない、ということである。よって、法論理上、憲法典(成文憲法)の改正無限界説と結びつく。

これに対して、英米法における法の支配(Rule of Law)とは17世紀初頭、エドワード・コークによって、イングランドにおいて確立された憲法学上の概念である。

法の支配とは、次の三本の柱から成る。


1.コモン・ロー(イングランド人が祖先から継承した道徳、慣習、伝統などの不文の法)は、國王大権の上位にあり、これをコモン・ローに合致するように解釈する。

2.國会の制定法(法律)は、コモン・ローに矛盾する場合、一般の正義と条理に反するがゆえに、無効である。コモン・ローは、法体系上、法律の上位にある。

3.コモン・ローは、改変・破壊されてはならない、最高にして至上のものである。



さて、このように、法の支配においては、法治主義に見られるような、主権者の意思に従って、思いのままに立法できる、などという考え方は真っ向から否定されている。法の支配においては、主権論は排撃、排斥され、祖先から継承した道徳や慣習、伝統などの不文の法(規範國體)に従って、立法は為されねばならないのである。

そして、成文化されたものは悉く「立法」(制定法)であるから、憲法典(成文憲法)はコモン・ロー(不文の法・規範國體)の支配を受け、これに反する場合は2の原則により、その憲法典は無効となる。従って法論理上、法の支配は憲法典の改正限界説と結びつく

よって、法の支配と法治主義とは、似て非なるものどころか、全く相反する、相互に排撃し合う概念である。ドイツ系法学には、「法の支配」などは存在しない。

また、かかる不文の法に従い、古来より立法を行ってきたという点では、我が國も同じである。明治時代以降、大陸法学の流入によりその形式は変わったが、我が國の伝統や歴史に鑑みれば、我が國では古来より「法の支配」が妥当してきたのである。

我が國においては、古来より「天皇といえども國體の下にある」のであって、國體に関する不文の規範(法)は、皇位の男系男子継承が脈々と守られてきたことから分かるように、天皇といえどもこれを侵すことはなかったのである。



ーーー 以下引用 ーーーー


憲法改正限界説とは、「限界を超えてはならない説」というように思いがちだが、

実際はまったく異なる。

むしろ、限界を超えることを前提につくられたものだ。

あえて例えるなら、「約束は破るため存在する」といったようなことだろうか。

破るためにあえて約束をつくる。

これまで国王にあった憲法制定意思(制憲権)が、その限界点を超えて国民に移行した。

そこの限界点を超えたことによる、国民主権の正当性を説いたのであった。

定義により限界点を設定し、それを超えたことを説明することにより

自分たちの立場の正当性を導く論理なのだ。



ーーー 引用ここまで ーーーー



 カール・シュミットは憲法制定権力を土台とした憲法理論を組み立てたが、この憲法制定権力こそは、「主権」の憲法典創造上の顕現である。

 憲法典を含む立法は道徳や慣習、伝統などに拘束されることなく(法の支配を否定)、憲法制定権力(主権者)の意思のままに、思うままに制定できるのである。つまり、カール・シュミットは憲法典制定・創造段階においては、無限界説を採っている

 従って、ここでいう「改正限界説」とは、主権論に立脚し、法の支配を排撃、否定した上で制定された憲法典に規定されている、「改正権」についての改正限界説である。「改正限界説が革命を正当化する原理云々」も、憲法制定権力を前提とした改正限界説の話である。

 これに対して、真正護憲論は、我が國の道徳や慣習、伝統などの不文の法(規範國體)を成文化したものが憲法典であり、そうでない占領憲法は、憲法典ではないと主張している。

 これは、憲法制定権力なるものを排撃し、イングランドの法の支配にその憲法理論を立脚するものであり、また、我が國の為政者が古来より、天皇を中心とする國體を守りつつ、道徳や慣習、伝統に従って立法を行ってきたことに立脚する

 真正護憲論は、このように、我が國の伝統と歴史を踏まえた、立憲主義(法の支配)に立脚する憲法理論なのである。

 つまり、真正護憲論でいう憲法改正限界説とは、憲法典の改正においては、憲法典が規範國體の成文化したものであることから、道徳、慣習、伝統などの規範國體を超える改正は無効である、というものである。

 谷田川氏のいう、憲法制定権力論を前提とする憲法改正限界説とは、その概念も段階も全く異にするものであり、氏の批判は全くの的外れであり、当たらない。

 そもそも、憲法学は我が國の伝統、歴史を踏まえたものでなければならず、それを無視、排撃する主権論に則る憲法学は、革命(有形無形の)を招来する恐れこそあれ、我が國の國體護持には、何ら裨益することはない。かかる憲法理論など、断じて採ってはならない。

 カール・シュミットは、国家社会主義政党たるナチスの御用学者であり、主権者たるヒトラーの「意思」こそが憲法制定権力であるとして、数々の非道、虐殺などを正当化した男である。これは、歴史的な事実ではないか。



ーーー 以下引用 ーーーー


つまり、改正限界説に立つことにより、憲法は最高法規であるから、

改正限界を超えた場合、改正前と改正後の憲法は対等関係となって、

「後法は前法を破る」という原則により、新憲法が有効となるのだ。



ーーー 引用ここまで ーーーー



 これは、立憲主義(法の支配)を前提とする憲法学に立脚すれば、誤りである。憲法典の上には更に規範國體(不文の法、コモン・ロー、本来の憲法)が存在するのであるから、憲法典は最高法規などではなく、改正の限界(規範國體)を超えたことにより、それは憲法典ではなくなり、無効となるのである。

 「後法が前法を破る」の原則も、それは後法が規範國體(不文の法、本来の憲法)を超えなかった場合のことである。違法な後法が合法な前法を破ることなどない。

 

ーーー 以下引用 ーーーー


ここで規範国体を持ち出しても、何の意味もないことはおわかりだろう。

改正限界説の定理は、

<①政治的意思による憲法制定権→②憲法律→③憲法律で付与された改正権>


であるから、規範国体というのは①の上位規範であり、

改正の限界を超えるというのは、

①の部分が違う規範による意思に入れ替わるだけだから、

そこでいくら規範国体を持ち出したところで、

規範そのものが変わってしまっているのだから何の意味もないのだ。



ーーー 引用ここまで ーーーー



これは、立憲主義(法の支配)を完全に誤解している。

國體が存続する以上、國體に包摂されている規範(規範國體)もまた厳然と存続しているのだから、それを成文化したものに過ぎない憲法典が、その改正の限界(規範國體)を逸脱しようとも、それは単に規範國體に反し、無効となるに過ぎない。

規範國體(不文の法、コモン・ロー、憲法) → 憲法典 

であって、下位の規範である憲法典には、上位の規範である規範國體(憲法)を改変する力などはないのである。

谷田川氏の反論は、先述しているカール・シュミットの憲法制定権力論を基礎とした改正限界説によるものだが、それを立憲主義(法の支配)にそのまま当てはめて批判している点で、根本的に論点がずれているのだ。


ーーーー 以下引用 ーーー


憲法制定権に立脚した改正限界説に立つ以上、

八月革命説が通説になるのは自然の流れだ。



ーーー 引用ここまで ーーーー


八月革命説についても、繰り返すが、立憲主義(法の支配)の立場からは、國民主権・基本的人権などの國體破壊思想を定めた占領憲法は憲法典ではなく、よって改正の限界を超えており、無効となるのである。

従って、改正限界説 → 八月革命説となるのは、カール・シュミットの憲法制定権力論を前提とすればあり得る論理かもしれないが、そもそも真正護憲論は立憲主義(法の支配)に立脚しており、この批判は当たらない。

むしろ、八月革命説は、無限界説に立たねば有効といえなくなってしまった占領憲法の無効性を糊塗する為に、やむなく改正限界説の立場から、「法的な革命が起こった」と擬制しているものである。



ーーー 以下引用 ーーーー


そのことをふまえると、日本国憲法は、第一条が存在することにより、

かろうじて国体は尊重され、

また、過去からの連続性と対立しない解釈によって運用することにより、

とりあえず有効と考えるとができると考える。

具体的には帝国憲法と日本国憲法を比較した場合、

天皇の役割はほとんど変わっておらず、天皇と国民の関係は一切変更していない。

変更したのは、重臣が決めていたことなどの一部が、国民や国会に移動しただけ。

一部政体が変更しただけと考えられ、憲法の本質的なところは共通する。



ーーー 引用ここまで ーーーー


占領憲法の第1条は、左翼思想たる國民主権を定めたものであり、皇室の破壊を内包するものである。

また、基本的人権や平和主義、平等主義などの諸原則も、フランス革命などから淵源する左翼思想、國體破壊思想に根ざすことは明らかである。

およそ、かかる基本理念を有する占領憲法が、憲法典ではないことは明らかであり、ここには大日本帝國憲法との連続性など、微塵も見られない。

かかる代物は、憲法典ではなく、憲法典としては無効である。



無限界説に立つことは、谷田川氏が立脚しているように、カール・シュミットの、いかなる道徳や慣習、伝統にも縛られない、憲法制定権力論による「主権者」「立法者」の絶対的意思をそのまま憲法典、法律などとして有効とする、ルソー思想を憲法学に導入、許容することとなる。

カール・シュミットは、ドイツにおけるルソー思想の後継者である。

伝統や歴史を踏まえた憲法典であるべきだ、というならば、なぜその最上位に規範國體を置き、これに絶対的な拘束力を持たせ、これに反する憲法典は無効である、と、真正面から立憲主義(法の支配)に立つ憲法理論を構築しないのか。なぜ、わざわざ、道徳や慣習などを捨象した憲法制定権力論などに立脚するのか。

憲法学説は、如何に高名な学者の説であろうと、通説や判例であろうと、その説が國體を守るのに裨益しないものであれば、紙くずの値打ちもない。何の役に立つというのか。

憲法学説は、いかにすれば國體を護持できるのか、の観点から組み立てられねばならないのである。

國體護持を本旨とする真正護憲論を批判するのであれば、國體を護持し得る、それに代わる憲法学説を提起すべきである。

最後に、補足程度に付言しておく。

真正護憲論とは、護「憲」、すなわち、正統の憲法典たる大日本帝國憲法と皇室典範の復元を通じて、我が國の本来の憲法たる規範國體を再認識しよう、というものである。

つまり、憲法典ではない占領憲法の無効を確認することで、我が國の不文の規範を再認識し、我が國の本来の、あるべき姿を確認し、強化し、取り戻そうというものだ。

これは、神武天皇による建國以来、或はその以前から、脈々と継承され、今もなお継承、存続している國體を再認識し、確認しようというものであって、明治時代以降の道徳や慣習などをまた復活させようというものとは、全くその趣旨を異にする。

大日本帝國憲法と正統皇室典範とは、いわば「不文の法」の顕現であり、表現であるに過ぎないのである。