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前回はこちら→ 『法律家と学生の対話(4)』


法律家「憲法典という、我が國の國體に関わるようなものを、外國の憲法典を以て論じることの愚が、よく分かっただろう。この男の考えによれば、我が國に革命が起こり、革命憲法典なる似非憲法典が制定されたとしても、憲法典として有効となる、という荒唐無稽なこととなる。」


学生「本当ですね。また、この先生は『憲法は國の法体系の頂点にあるので、憲法をしばる存在はない』と言われました。」


法律家「これも完全な誤りだ。彼の言う『憲法』とは、正確には憲法典のことである。憲法典は、その上位規範たる規範國體(憲法)を成文化したものであり、規範國體に拘束される。よって、規範國體に反する憲法典は、正統性を欠き、憲法典としては無効となる(詳しくは(2)を参照)。」


学生「占領憲法典が妥当性・実効性を有する、という主張をするについては、天皇陛下をはじめ、國民も日本國憲法を憲法典であるという前提で動いているのだから、当然、妥当性・実効性を有する、と言われています。」


法律家「妥当性・実効性とは、そのように國民が憲法典という前提で動くか否かによって備わるものではない。そもそも、國民がそれを憲法典という前提で動くか否かなどは、憲法典の正統性とは何の関係もない(詳しくは(2)を参照)

また、妥当性・実効性の問題に限ってみても、第9条がそうであるように、占領憲法典の基本原理には妥当性・実効性がない。従って、占領憲法典は憲法典として無効である。」


学生「とても疑問に感じたのが、この人が憲法典の改正無限界説を採っていることでした。」


法律家「まさにその通りなのだ。この男は、語るに落ちた、といえる。日頃は口ではどのようなことを言っていようとも、まさにこの発言において、自分が左翼思想に立つ人定法主義者であることを自白したのだ。

つまり、憲法典とは規範國體を成文化したものであるところ(正統性)、憲法典を改正する場合には、必然的に規範國體を逸脱することはできないことになる。すなわち、規範國體を逸脱すれば、正統性が欠如し、憲法典ではなくなるからだ。よって、そのような「改正」は無効となるのである。

このようなことを肯定するということは、憲法典の正統性というものを全く考慮に入れていないことの証左であり、よって彼は人定法主義に立っていることが明らかとなったのである。」


学生「改正無限界説に立っていて、同時に立憲主義(法の支配)に立つことはあり得ないというわけですね。」


法律家「そうなのだ。改正無限界説に立つと明言したということは、彼が自分で紛れもない左翼であることを自白したことになる。」


学生「國民主権については、政治論上は、主権とは、國民が歴史や伝統を無視して何でも変更してしまえることだと考えがちだが、憲法学上は違う、ということでしたが。」


法律家「これも彼の詭弁、誤摩化しだ。主権論とは憲法学上の概念であり、國體を思うままに変更、破壊できる権限のことをいうのである。同じことが、政治論の上でも語られるに過ぎない。政治論で語られる主権論は、憲法学上の主権論を反映するものであって、両者に何の違いもない。

そして、もう一つ、到底看過できない大きな誤りを彼は犯している。君主主権の対義語は、國民主権だ、という箇所だ。

君主主権にせよ、國民主権にせよ、こんなものは主権が誰に属するか、という人定法主義の立場からの議論に過ぎないのであって、所詮は同じ穴の狢に過ぎないのである。君主主権や國民主権の対義語は、そのような主権論を否定する理念、すなわち立憲主義(法の支配)に他ならないではないか。これを無視して、主権論の内部での議論しかできないというのは、彼が人定法主義に立つ証左である。

彼は、憲法学の初歩的な知識もないと言わざるを得ない。


続きはこちら→ 『法律家と学生の対話(6)』