こんばんは。

 今日は、『日本国憲法』有効論の主な根拠の一つとなっている、「昭和天皇の上諭により『日本国憲法』は有効である(=承詔必謹により有効)」という考え方について、論じてみたいと思います。



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1.日本国憲法有効論の「承詔必謹によって有効」という考え方


 まず、この考え方の論拠を見てみましょう。

 ここでいう「上諭」とは、『日本国憲法』の冒頭に付された先帝陛下によるお言葉をいいます。これは、「朕は、・・・(略)・・・帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」となっています。

 さて、承詔必謹とは、「十七条憲法」の第三条にあるもので、「詔を承りては必ず謹め」、すなわち畏れ多くも天皇陛下のお言葉であれば、必ず謹んで聴かねばならない、というものです。

 我が国の国体の中心にまします天皇陛下や皇族方のお言葉に対し、必ず謹んで聴かねばならないのは、異論を差し挟む余地のない「当たり前」のことであって、聖徳太子もこの「当たり前」の不文の法を成文化し、十七条憲法とされたのです。

 さて、『日本国憲法』の上諭は紛れもなく天皇陛下のお言葉、詔であり、その詔によって、「(『日本国憲法』を)公布せしめる。」となっています。

 従って、畏れ多くも先帝陛下が上諭をもって公布された『日本国憲法』である以上、これを憲法として認めないというのは承詔必謹に悖るものであり、従って『日本国憲法』は憲法として有効である、というのがこの考え方の論拠なのです。

 


 2.憲法とは何か


 さて、この考え方について論じる前に、そもそも憲法とは何か、憲法の定義という根本的な事柄について簡単に確認しておきましょう。

 憲法とは、我が国の道徳や慣習、伝統などの「不文の法」のうち、特に国家の統治に関わる規範をいいます(不文憲法)。憲法とはその本来の姿は不文の規範であり、不文憲法なのです。

 そして、その不文憲法を明確にするために、「当たり前」のことながらこれらをあえて成文化し、さらに憲法規範とはいえないような技術的な事項(例えば「会計」など)を適宜付け加えたものを成文憲法(憲法典)といいます。

 我が国においては、この定義に当てはまる成文憲法(憲法典)は十七条憲法、五箇条の御誓文、大日本帝国憲法、皇室典範などが挙げられます。

 近代に起草された成文憲法については、「憲法とは権力の抑制と均衡を図るものである」などという説明もなされますが、これは憲法の機能の一つであって、定義ではありません。

 憲法とは何か、についてはこのブログの『大日本帝国憲法 入門の入門』(1)以降にも論じていますので、ぜひそちらもご参照下さい。

 このように、成文憲法(憲法典)とは国体に関わる不文の法を成文化したものであるので、いわゆる「国体法」なのです。

 さて、これに対して『日本国憲法』はその基本原理が「国民主権(民主主義)、基本的人権、平等主義」などの理性万能思想(左翼思想)に由来するものです。

 理性万能思想は祖先から継承した伝統や慣習などの不文憲法を否定、破壊しようとするものです。つまり、国民主権、基本的人権などは憲法を破壊する概念であり、これらの概念により成り立っている法典が「憲法典」と名乗ることは完全なる矛盾なのです。

 よって、『日本国憲法』は憲法の定義に当てはまるものではなく、その名称にかかわらず憲法典ではないことになります。

 従って、『日本国憲法』有効論によれば、憲法ではないものを憲法典とすることで、我が国の国体を破壊する危険性があるという、大きな問題が生じます。



 
 3.国体護持と承詔必謹


 さて、そう考えると、非常に困ったことになります。

 『日本国憲法』は憲法典ではない、すなわち法律学上は無効(形の上ではあるように見えているだけで、実際は存在していないこと)であるにもかかわらず、先帝陛下は上諭によってこれを公布されています。

 承詔必謹によれば、上諭によって公布された法典である以上、これを有効として扱わねばならないことになります。

 ところが、『日本国憲法』は憲法の定義に当てはまらず、憲法典ではないのです。

 承詔必謹によれば、憲法ではないものを憲法典として認めることになってしまいそうですが、そんなことになれば、我が国の国体を破壊する概念を憲法典として認めることになってしまい、内に我が国の道徳や慣習、伝統などが破壊され、外に国益を毀損し、我が国の国体は徐々に破壊されていく恐れがあります。

 また、そのような事態は畏れ多くも先帝陛下の大御心にも悖ることと思われます。敗戦という困難を乗り越え、堪え難きを堪えて我が国を救われるために、あえて『日本国憲法』を公布されたのです。

 憲法とはいえない『日本国憲法』を憲法典として有効とすることは、我が国の国体破壊につながり、認められません。しかし、『日本国憲法』を憲法典として無効とすれば、承詔必謹に悖るという批判を受けることにもなりそうです。

 さて、どのように考えればいいのでしょうか。

 

 4.新無効論による解決方法


 この点をうまく解決したのが、日本国憲法新無効論です。

 憲法でないものを憲法典とすることはできません。しかし、先帝陛下の上諭には従わねばならない。では、『日本国憲法』が憲法典ではなくても、憲法典の下位にある法規範だと解釈すればどうでしょうか?

 もしもそのような解釈が可能であれば、全てうまくおさまるのです。

 つまり、先帝陛下は上諭によって、『日本国憲法』という名称の、憲法典ではない法典を公布された、と解釈すれば、我が国の国体破壊の恐れもなく、承詔必謹に悖ることもないのです。

 さて、「無効規範の転換」という法理(法律学上の理論)があります。これは、「その法令の名称がどんなものであっても、その内容が憲法典に反しないものであれば(反しないように解釈し直して)、それを有効として認める」というものです。

 これを理論を成文化したものが、大日本帝国憲法第76条第1項なのです。

 大日本帝国憲法施行に伴い、法令の制定には、明治維新以降、あるいはそれ以前の江戸時代以前から通用していた法令とは異なる制定手続(法律であれば貴族院と衆議院による協賛など)が定められるようになりました。

 では、このような大日本帝国憲法施行以前から存在していた法令は、その制定手続が憲法違反であるために、無効となってしまうのでしょうか?

 そのようなことになれば、折角それらの法令の下に築かれてきた社会の安定性は損なわれてしまいます。

 そこで、大日本帝国憲法による制定手続を踏んでいない法令であっても、それが大日本帝国憲法に反しないものであれば(あるいは反しないように解釈し直して)、それを有効と認める、というわけです。

 さて、この「無効規範の転換」の法理を『日本国憲法』に当てはめてみるとどうでしょうか?

 すなわち、『日本国憲法』は名称こそ憲法典だが、内容は憲法ではない、しかしこれを大日本帝国憲法よりも下位の法典だと解釈することができれば、大日本帝国憲法に反しない限度で有効として認められる、ということになるのです。

 つまり、大日本帝国憲法の下に『日本国憲法』が存在し、大日本帝国憲法に反する国民主権や基本的人権などの理念は無効化(つまり無視)されて初めて有効として存在を認められるわけです。

 そして、新無効論では、その起草過程などの諸般の事象を勘案すれば、『日本国憲法』は講和条約の一つである、と解することができる、としています。

 つまり、大日本帝国憲法の下位規範である『日本国憲法』という名称の講和条約である、というわけです。

 このように考えれば、先帝陛下は上諭をもって、『日本国憲法』という講和条約を公布されたことになります。

 そして、大日本帝国憲法に反しないように解釈された講和条約であれば、これを有効としても国体破壊につながることはありません。しかも、これを有効とするわけですから、承詔必謹に反することもないのです。

 このように、新無効論は承詔必謹との関係をどうクリアするか、に見事に答えを出しているのです。

 

 5.『日本国憲法』下で制定された法律の効力


 今日のテーマではないので詳細には論じませんが、講和条約たる『日本国憲法』下で制定された法令の効力についても簡単に述べておきます。

 今までに『日本国憲法』下で制定された法令も、その内容が大日本帝国憲法に反しない限り、あるいは反しないように解釈されて、その限度で有効と認められます。従って、中には違憲無効となるものもあるわけです。

 この点については、たとえば『日本国憲法』下で制定された法律は、大日本帝国憲法下で制定された法律のように貴族院の協賛を経ていないことから、大日本帝国憲法下においては法律としての効力を持たないのではないか、という批判があります。

 しかし、その法律が有効か無効かを決する主要な要素は、その内容が憲法典に反するか否かで決せられます。貴族院の協賛を経ているか否かは、法律の有効性を左右する主要な要素ではないのです。つまり、ここでも「無効規範の転換」の法理が適用されるのです。よって、この批判は的外れというべきでしょう。