< これまでのポイント >
1.国家の法規範は「法」と「法律」に分けられる。
2.法とはその国民が祖先から継承してきた道徳や慣習、伝統などをいい、法律(や命令など)の上位にある。
3.法に反する法律(や命令など)は無効である。
こんにちは。今日は「自由」についてお話します。
国家の規範としてのルールを法規範といいます。すなわち、憲法、法律、命令(政令など)、条例などが法規範です。
国家において、為政者が自分たちの好き勝手に物事を決めたり、自分たちに都合の良い命令を出したり、自分たちに都合の悪い人物を勝手に逮捕したり、処刑したりされるようでは、その国は自由な国家とはいえません。
従って、これら法規範がしっかり定まっているかどうか、これが、その国が自由な国かどうかを分ける基準となります。確かに、法規範が存在し、それに従わねばならないことによって、国民もある程度の自由は制限されますが、それと引き換えに一定の自由もまた保障される、というわけです。
さて、問題はここからです。
法規範が定まってさえいれば、その国は自由な国だといえるのでしょうか?
成文憲法や法律、などが存在する国は、全て自由な国家でしょうか?
これはすぐに、皆さんは「違う」と分かりますよね。
現代には多くの国家が存在しますが、そのほとんどは成文憲法と法律を有しています。ところが、それにも関わらず独裁政治の圧政に苦しんでいる国家は多いのです。
法規範が存在しているのに、なぜこんなことが起こってしまうのでしょうか?
今日は、この問題を少し考えてみます。
< 「進んだ社会」? 何それ? >
抽象的に話していても分かりにくいので、少し具体的に考えてみます。支那を例に挙げましょう。
ところで、少し脱線しますが、「支那」というと反射的に「差別用語だ」という人がいますが、これは完全なウソです。
支那は仏典に登場する言葉である由緒正しい言葉であって、広辞苑(第6版)の「支那」の項にも差別用語であるとの記載はありません。私は大陸に興亡する諸帝国を通称する名称として用いているのであって、「支那」なる呼称がこれらの諸国を蔑視するものではないことを明言しておきます。
それはさておき、支那は伝統的に皇帝の専制的権力が強く、それは「皇帝」が形式上は消滅した現代の中華人民共和国においても為政者たちが専断的な権力を行使する国家体制に現れています。
では、なぜ支那には自由がないのでしょう?
皇帝の下には通常、貴族階級が存在します。しかし、支那においては時代を追うごとに貴族階級の力が弱体化し、五代十国の乱(907~960)の頃を境に彼らは力を失います。
その後成立した宋(960~1279)においては科挙制度が確立・完成し、皇帝は科挙によって選抜された官僚を自分の手足として国政を担うようになります。かくして、貴族階級は消滅へと向かっていったのです。
「我が国はまだ平安時代、こんな時代に貴族階級が消滅していったなんて、支那は進んでいるな~」と、お考えの方もおられるかもしれません。しかし、実はその発想こそが要注意なのです。
「貴族階級が存在しない = 進んだ社会」って、・・・これって本当にそうですか? なぜそう言えるのでしょう? そもそも、「進んだ社会」って何でしょうか?
私たちはこのような、貴族階級(あるいは君主など)のようないわば「封建的な階級」が存在しない社会は、「進んだ社会」だという一種の「刷り込み」「洗脳」のようなものを受けてきています。そのような昔ながらの「古くさいもの」のない社会が「進んだ社会」なのだ、ということなのでしょう。
実は、この「進んだ社会」という考え方こそが、左翼思想に他なりません。「人間は進歩していく、昔の人間よりも、現代の人間の方が優れている、昔のものを否定し、新しいものに変えていくことが正しいことなのだ」という理性万能主義なのです。
これは政治的には『左翼思想とは何か』でお話したように、「ある特定の人物や党派などの『意志(理性)』こそが『絶対』である」という形で現れます。すなわち、昔からの伝統や道徳などよりも、現代の特定の者の考えの方が優れていて、優先すべきだ、ということ、これこそ左翼思想なのです。
もちろん、宋の時代には左翼思想などという概念はありませんが、ぜひ理解して頂きたいことは、この「身分制度がない = 進んでいる」というのは紛れもない理性万能主義、左翼思想に他ならないということなのです。
< 貴族階級が消え、自由も消えた >
さて、宋以降、身分制度が完全になくなったわけではないものの、貴族階級が消滅したことで、どんなことが起こったでしょうか。
ごく大雑把に言いますと、これまで、皇帝と庶民の間には貴族が介在し、貴族は庶民に様々な影響を及ぼしてきました。これは、庶民にとっては何かと煩わしいこともありましたが、一方では貴族の存在が皇帝による庶民への権力行使にとって、結果的に障壁となって守ってくれるものでもあったのです。皇帝と貴族階級は、その権力行使が衝突することでその力は相殺され、結果的には貴族階級が庶民にとって緩衝となってきたわけです。
しかし、貴族階級が消滅してしまえばこのような皇帝にとっての「障壁」はなくなります。全ての権力の源泉は皇帝に一元化されます。つまり、皇帝の専制を押しとどめるものは何もなくなるという、恐ろしい事態となったのです。
そして、この恐ろしい事態を、理性万能主義者(左翼)は「進んだ社会」だと礼賛するのです。無知も甚だしい、滑稽な見解としか言いようがありませんが、むしろそれが彼らの意図するところなのです。
身分制度だけではありません。道徳や慣習、宗教などの倫理も、その存在は為政者にとって権力を恣意的に行使することへの障壁となります。そして・・・お気づきですね、理性万能主義者(左翼)はこれらも「遅れたもの、封建的で古くさいもの」として攻撃していることを。何のことはない、彼らは為政者が権力を専断的に行使し、国民から自由を奪うためのプロパガンダをしているに過ぎないことを。
そして、そのような国家でいくら、自由がどうのこうのと言ったり、成文憲法を制定したり法律を制定しようが、為政者の意向次第で好き勝手できてしまえば、何の意味もありません。そんな成文憲法や法律は、所詮は紙切れでしかないのです。
かくして、支那は皇帝に権力が一元化し、道徳や慣習なども顧慮されなくなることで、理性万能を唱える左翼思想を受け入れるのに絶好の環境となっていったわけです。
支那は20世紀において共産化するわけですが、実はその下地は既に宋代に形成されつつあったのです。
< 自由は法によって生じ、守られる >
このように、自由とは古来の身分制度や、道徳、慣習、伝統がしっかりと息づく社会において、初めて生じ、かつ保障されます。このようなものがほとんど機能していない国家では、自由は生じようがないし、保障されません。いくら成文憲法や法律で「~の自由」「~の権利」を定めようが無意味、無力です。そんな紙切れは、何の役にも立たないのです。
自由とは、自分の思い通りにすること、好き勝手すること、ではありません。国民がその国の道徳や慣習、伝統などを守り、それに従っていく中に生じる行為や内心の作用について生じるものです。
保守思想とは、このような古来の身分制度や道徳、慣習、伝統など、すなわち法によって生じ、保障される自由を守ることで、その国の国柄、その国らしさを守っていくものなのです。
従って、保守思想においては、為政者の制定する法律や命令などは全て、法に反してはならないものとされます。これは、法に反する法律や命令などは国民の自由を侵害するものであるからに他なりません。
よって、法に反する一切の法律や命令、条約などは無効となり、これを憲法(不文憲法)違反というのです。不文憲法とは、法の中でも特に国体に関わる規範を指すと理解しておいて下さい。
このように、為政者も国民も、法(不文憲法)の下にあり、これに従うことによって自由を守るという考え方を立憲主義(法の支配)といいます。
これに対して、為政者は自分(たち)の「意志(理性)」に基づいて専断的に法律や命令などを制定でき、国民はそれに「絶対」に従わねばならないという考え方を、人定法主義(法治主義)といいます。為政者がどんな法律や命令を出そうが、為政者の好き勝手にできます。国民は「絶対」に従わねばならないというわけです。
このように、「法の支配」と「法治主義」は一見似ているように思えますが、「法の支配」は保守思想によるもの、「法治主義」は理性万能主義(左翼思想)によるものであって、全く正反対であるものであることを理解して下さい。
成文憲法や法律などが存在するにも関わらず、平然と独裁者が圧政を敷くことができるのは、その国家から古来の法を守ろうという意識や身分制度などのシステムが枯渇し、独裁者が専断的な権力を行使することが可能になってしまっているから、すなわち人定法主義(法治主義)の国家となってしまっているからなのです。
自由は、古来の身分制度や道徳、慣習や伝統などから生じ、これらによって保障されます。よって、我々はこれらの自由を守ってくれるシステムを守り、決して破壊してはならないのです。
「進んだ社会(失笑)」である支那において身分制度が崩壊し、易姓革命に次ぐ易姓革命、内乱に次ぐ内乱で古来のシステムがどんどん崩壊していき、自由が死滅していきます。
しかし、「遅れた社会(失笑)」である我が国は天皇や公家や武家などの身分制度が確立し、まさにその頃、北条泰時らが「ただ道理(すなわち「法」)のおすところを記され候ものなり」として武家社会の判例や慣習法などの不文の法を成文化した御成敗式目を著し、ここに我が国の法の支配の下の自由の精華を示すこととなるのです。
我が国には、伝統的にはこのような法の支配の下の自由を表現する「言葉」は存在しませんでしたが、それと同じ「考え方」「やり方(システム)」は存在し、それに則って政治が行われてきたというわけです。これはちょうど、「万世一系」という「言葉」が明治時代に生まれたにもかかわらず、それと同じ「考え方」「やり方(システム)」が神武天皇以来約2700年にわたって続いてきているのと同じです。
< 今日のポイント >
1.自由とは、国民がその国の道徳や慣習、伝統などを守り、それに従っていく中に生じる行為や内心の作用について生じるものをいう。
2.保守思想とは、このような古来の身分制度や道徳、慣習、伝統など、すなわち法によって生じ、保障される自由を守ることで、その国の国柄、その国らしさを守っていくものである。
3.自由は法によって生じ、守られるものであり、法と自由は一体である。

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1.国家の法規範は「法」と「法律」に分けられる。
2.法とはその国民が祖先から継承してきた道徳や慣習、伝統などをいい、法律(や命令など)の上位にある。
3.法に反する法律(や命令など)は無効である。
こんにちは。今日は「自由」についてお話します。
国家の規範としてのルールを法規範といいます。すなわち、憲法、法律、命令(政令など)、条例などが法規範です。
国家において、為政者が自分たちの好き勝手に物事を決めたり、自分たちに都合の良い命令を出したり、自分たちに都合の悪い人物を勝手に逮捕したり、処刑したりされるようでは、その国は自由な国家とはいえません。
従って、これら法規範がしっかり定まっているかどうか、これが、その国が自由な国かどうかを分ける基準となります。確かに、法規範が存在し、それに従わねばならないことによって、国民もある程度の自由は制限されますが、それと引き換えに一定の自由もまた保障される、というわけです。
さて、問題はここからです。
法規範が定まってさえいれば、その国は自由な国だといえるのでしょうか?
成文憲法や法律、などが存在する国は、全て自由な国家でしょうか?
これはすぐに、皆さんは「違う」と分かりますよね。
現代には多くの国家が存在しますが、そのほとんどは成文憲法と法律を有しています。ところが、それにも関わらず独裁政治の圧政に苦しんでいる国家は多いのです。
法規範が存在しているのに、なぜこんなことが起こってしまうのでしょうか?
今日は、この問題を少し考えてみます。
< 「進んだ社会」? 何それ? >
抽象的に話していても分かりにくいので、少し具体的に考えてみます。支那を例に挙げましょう。
ところで、少し脱線しますが、「支那」というと反射的に「差別用語だ」という人がいますが、これは完全なウソです。
支那は仏典に登場する言葉である由緒正しい言葉であって、広辞苑(第6版)の「支那」の項にも差別用語であるとの記載はありません。私は大陸に興亡する諸帝国を通称する名称として用いているのであって、「支那」なる呼称がこれらの諸国を蔑視するものではないことを明言しておきます。
それはさておき、支那は伝統的に皇帝の専制的権力が強く、それは「皇帝」が形式上は消滅した現代の中華人民共和国においても為政者たちが専断的な権力を行使する国家体制に現れています。
では、なぜ支那には自由がないのでしょう?
皇帝の下には通常、貴族階級が存在します。しかし、支那においては時代を追うごとに貴族階級の力が弱体化し、五代十国の乱(907~960)の頃を境に彼らは力を失います。
その後成立した宋(960~1279)においては科挙制度が確立・完成し、皇帝は科挙によって選抜された官僚を自分の手足として国政を担うようになります。かくして、貴族階級は消滅へと向かっていったのです。
「我が国はまだ平安時代、こんな時代に貴族階級が消滅していったなんて、支那は進んでいるな~」と、お考えの方もおられるかもしれません。しかし、実はその発想こそが要注意なのです。
「貴族階級が存在しない = 進んだ社会」って、・・・これって本当にそうですか? なぜそう言えるのでしょう? そもそも、「進んだ社会」って何でしょうか?
私たちはこのような、貴族階級(あるいは君主など)のようないわば「封建的な階級」が存在しない社会は、「進んだ社会」だという一種の「刷り込み」「洗脳」のようなものを受けてきています。そのような昔ながらの「古くさいもの」のない社会が「進んだ社会」なのだ、ということなのでしょう。
実は、この「進んだ社会」という考え方こそが、左翼思想に他なりません。「人間は進歩していく、昔の人間よりも、現代の人間の方が優れている、昔のものを否定し、新しいものに変えていくことが正しいことなのだ」という理性万能主義なのです。
これは政治的には『左翼思想とは何か』でお話したように、「ある特定の人物や党派などの『意志(理性)』こそが『絶対』である」という形で現れます。すなわち、昔からの伝統や道徳などよりも、現代の特定の者の考えの方が優れていて、優先すべきだ、ということ、これこそ左翼思想なのです。
もちろん、宋の時代には左翼思想などという概念はありませんが、ぜひ理解して頂きたいことは、この「身分制度がない = 進んでいる」というのは紛れもない理性万能主義、左翼思想に他ならないということなのです。
< 貴族階級が消え、自由も消えた >
さて、宋以降、身分制度が完全になくなったわけではないものの、貴族階級が消滅したことで、どんなことが起こったでしょうか。
ごく大雑把に言いますと、これまで、皇帝と庶民の間には貴族が介在し、貴族は庶民に様々な影響を及ぼしてきました。これは、庶民にとっては何かと煩わしいこともありましたが、一方では貴族の存在が皇帝による庶民への権力行使にとって、結果的に障壁となって守ってくれるものでもあったのです。皇帝と貴族階級は、その権力行使が衝突することでその力は相殺され、結果的には貴族階級が庶民にとって緩衝となってきたわけです。
しかし、貴族階級が消滅してしまえばこのような皇帝にとっての「障壁」はなくなります。全ての権力の源泉は皇帝に一元化されます。つまり、皇帝の専制を押しとどめるものは何もなくなるという、恐ろしい事態となったのです。
そして、この恐ろしい事態を、理性万能主義者(左翼)は「進んだ社会」だと礼賛するのです。無知も甚だしい、滑稽な見解としか言いようがありませんが、むしろそれが彼らの意図するところなのです。
身分制度だけではありません。道徳や慣習、宗教などの倫理も、その存在は為政者にとって権力を恣意的に行使することへの障壁となります。そして・・・お気づきですね、理性万能主義者(左翼)はこれらも「遅れたもの、封建的で古くさいもの」として攻撃していることを。何のことはない、彼らは為政者が権力を専断的に行使し、国民から自由を奪うためのプロパガンダをしているに過ぎないことを。
そして、そのような国家でいくら、自由がどうのこうのと言ったり、成文憲法を制定したり法律を制定しようが、為政者の意向次第で好き勝手できてしまえば、何の意味もありません。そんな成文憲法や法律は、所詮は紙切れでしかないのです。
かくして、支那は皇帝に権力が一元化し、道徳や慣習なども顧慮されなくなることで、理性万能を唱える左翼思想を受け入れるのに絶好の環境となっていったわけです。
支那は20世紀において共産化するわけですが、実はその下地は既に宋代に形成されつつあったのです。
< 自由は法によって生じ、守られる >
このように、自由とは古来の身分制度や、道徳、慣習、伝統がしっかりと息づく社会において、初めて生じ、かつ保障されます。このようなものがほとんど機能していない国家では、自由は生じようがないし、保障されません。いくら成文憲法や法律で「~の自由」「~の権利」を定めようが無意味、無力です。そんな紙切れは、何の役にも立たないのです。
自由とは、自分の思い通りにすること、好き勝手すること、ではありません。国民がその国の道徳や慣習、伝統などを守り、それに従っていく中に生じる行為や内心の作用について生じるものです。
保守思想とは、このような古来の身分制度や道徳、慣習、伝統など、すなわち法によって生じ、保障される自由を守ることで、その国の国柄、その国らしさを守っていくものなのです。
従って、保守思想においては、為政者の制定する法律や命令などは全て、法に反してはならないものとされます。これは、法に反する法律や命令などは国民の自由を侵害するものであるからに他なりません。
よって、法に反する一切の法律や命令、条約などは無効となり、これを憲法(不文憲法)違反というのです。不文憲法とは、法の中でも特に国体に関わる規範を指すと理解しておいて下さい。
このように、為政者も国民も、法(不文憲法)の下にあり、これに従うことによって自由を守るという考え方を立憲主義(法の支配)といいます。
これに対して、為政者は自分(たち)の「意志(理性)」に基づいて専断的に法律や命令などを制定でき、国民はそれに「絶対」に従わねばならないという考え方を、人定法主義(法治主義)といいます。為政者がどんな法律や命令を出そうが、為政者の好き勝手にできます。国民は「絶対」に従わねばならないというわけです。
このように、「法の支配」と「法治主義」は一見似ているように思えますが、「法の支配」は保守思想によるもの、「法治主義」は理性万能主義(左翼思想)によるものであって、全く正反対であるものであることを理解して下さい。
成文憲法や法律などが存在するにも関わらず、平然と独裁者が圧政を敷くことができるのは、その国家から古来の法を守ろうという意識や身分制度などのシステムが枯渇し、独裁者が専断的な権力を行使することが可能になってしまっているから、すなわち人定法主義(法治主義)の国家となってしまっているからなのです。
自由は、古来の身分制度や道徳、慣習や伝統などから生じ、これらによって保障されます。よって、我々はこれらの自由を守ってくれるシステムを守り、決して破壊してはならないのです。
「進んだ社会(失笑)」である支那において身分制度が崩壊し、易姓革命に次ぐ易姓革命、内乱に次ぐ内乱で古来のシステムがどんどん崩壊していき、自由が死滅していきます。
しかし、「遅れた社会(失笑)」である我が国は天皇や公家や武家などの身分制度が確立し、まさにその頃、北条泰時らが「ただ道理(すなわち「法」)のおすところを記され候ものなり」として武家社会の判例や慣習法などの不文の法を成文化した御成敗式目を著し、ここに我が国の法の支配の下の自由の精華を示すこととなるのです。
我が国には、伝統的にはこのような法の支配の下の自由を表現する「言葉」は存在しませんでしたが、それと同じ「考え方」「やり方(システム)」は存在し、それに則って政治が行われてきたというわけです。これはちょうど、「万世一系」という「言葉」が明治時代に生まれたにもかかわらず、それと同じ「考え方」「やり方(システム)」が神武天皇以来約2700年にわたって続いてきているのと同じです。
< 今日のポイント >
1.自由とは、国民がその国の道徳や慣習、伝統などを守り、それに従っていく中に生じる行為や内心の作用について生じるものをいう。
2.保守思想とは、このような古来の身分制度や道徳、慣習、伝統など、すなわち法によって生じ、保障される自由を守ることで、その国の国柄、その国らしさを守っていくものである。
3.自由は法によって生じ、守られるものであり、法と自由は一体である。
ランキングに参加しています。保守思想の普及のため、何卒クリックをお願い致します。