こんにちは。今日は憲法って何だろう、というお話です。



<憲法とは>


 国体と、それに関わる法は非常に広範囲で多岐にわたるものですが、その中でも天皇や皇室に関わる法や、国家機関に関わる法などは、特に憲法と呼ばれます。

 憲法とは、天皇や皇室、国家の機関に関わる道徳や慣習、伝統などのことなのです。

 従って、憲法とは文字に書かれたものではありません。本来の憲法とはこのような道徳や慣習などであり、文章で表されたものではないのです。

 「憲法は文章で表されるものではない」などというと、一見、何だかいいかげんなものに思えてしまいますが、そうではありません。

 初めに出てきた法の例で考えてみましょう。「人を殺してはならない」があいまいでよく分からないなどと言う人はいません。「物を盗んではならない」がよく分からないなどという人もいません。

 このように、法というものは道徳や慣習や伝統などの上で明らかであり、あえて文章にする必要がないもの(言うならば「常識」)なので、文章にされていないのです。

 裏返せば、わざわざ文章にしなければならないのは、それをはっきりした形にしなければ分かってもらえないものである、よく分からないものであるというわけです。むしろ、こちらの方が「いいかげん」なものだとも言えるでしょう。

 つまり、憲法とは天皇や皇室、国家の機関などに関わる「当たり前のルール」であるのです。だから、文章にしてくどくど説明する必要がないのです。

 このように、憲法がその本来の姿である、文章化されていない状態を不文憲法といいます。このブログでは、憲法といえば特に断りのない限り、不文憲法を指すものとします。それが本来の姿だからです。




<不文憲法を文章化したものが成文憲法(憲法典)>


 ところが、実際には、我が国の歴史においては時代の節目ごとに成文憲法(憲法典)(憲法を文章にしたもの)が起草されてきました。

 例えば、聖徳太子による「憲法十七条」や明治維新における「五箇条の御誓文」「大日本帝国憲法」などがそうです。

 成文憲法を起草するといっても、これはあくまでも憲法を文章にしただけのことです。その文章を起草する人が自分で憲法を考えだすわけではありません。そんなことをすれば、それはその人の勝手な考えであって、憲法ではなくなります。それは単にその人、またはその特定の時代の人々だけの「意志」に過ぎません。憲法においては、このような「意志」は徹底的に排斥されます。

 つまり、正確に言うと憲法は一から「制定する」「作る」ものではなく、「文章化する」「確認する」だけのことなのです。憲法を「作る」ことはできません。それは憲法ではなくなってしまうのです。

 それにしても、「常識」である憲法を、なぜわざわざ文章化する(成文憲法にする)必要があるのでしょうか?

 このような成文憲法が起草されたのは、様々な時代の節目であることが多いのです。そのような時代の節目に当たって、改めて新たな気持ちで国体を守っていこうとする時、時の為政者は不文憲法を成文憲法の形にして確認してきたのです。

 成文憲法(憲法典)は、本来の憲法である不文憲法を確認し、文章化したものでしかないのです。




<今日のポイント>

1.憲法とは、法の中でも特に、天皇や皇室、国家の機関に関わる道徳や慣習、伝統などのことである。

2.憲法とは本来、不文憲法である。

3.成文憲法(憲法典)は、不文憲法を確認するために文章化したに過ぎないものであり、いわば本来の憲法の仮の姿でしかないものである。








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