530「聖書は改竄されたか?」ゆるゆるキリスト教雑記帳

ゆるゆるその1
いつも最初にお断りしているのですが、内容は私の極めて独断による見解ですので、ご了解ください。聖書の訳は協会共同訳を使用しています。

聖書は無謬か?ということを考える際に、大切なことは何かといえば、改竄されていないのか?オリジナルはどれか?写本には間違いがないか?ということが必要です。協会共同訳聖書などのように、注で異本では「〇〇」というように書かれていれば、改竄問題、オリジナル問題などを考慮して読むことができます。注がない場合には要注意です。
写本で有名なものに、バチカン図書館奥深くから発見されたバチカン写本があります。4世紀につくられたもので現存する最古かつ最良の写本と言われています。この写本の面白さは、改竄のあとがはっきりわかることなのです。この写本には、意図的改竄の実例がいくつもあるのです。有名なのが、「ヘブライ人の手紙」1-3
*御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって、万物をその力ある言葉によって支えておられます。・・・
注に「輝き」の別訳として「反映」とあります。別訳はさておき、改竄の実例となる箇所は、「支えておられます。」の箇所なのです。
オリジナルの写本は「支えておられます。」と書いてあったのです。この写本を第1の写本書紀が別の写本に写す際に、元の写本の「支えておられます。」が誤りだと考えて、元の写本を「顕しておられます。」書き直したのです。何世紀か後で、この写本を第2の写本書紀が別の写本に写す際に、書き直されている「顕しておられます。」に気づき、この箇所を消して「支えておられます。」に書き直したのです。次に何世紀か後で、この写本を第3の写本書紀が別の写本に写す際に、書き直されていた「支えておられます。」に気づき、再び「顕しておられます。」に書き直したのです。さらに、第3の写本書紀は第2写本書紀の書き直しが許せなくて、欄外に「阿呆かお前は!元のままにしておけ、勝手に変えるな!」と書きつけたのです。
オリジナルの写本が原本のコピーだったとしたら、書き直しという改竄がされているとしたら、ヘブライ人の手紙の著者の考えが、異なってしまうのです。
「支えておられます。」なら、「御子キリストは、自分の言葉によって、万物を、この宇宙すべてを存在せしめている。」と意味になります。「顕しておられます。」なら、「御子キリストは、自分の言葉によって、万物を、この宇宙すべてを明確にして示している。」と言う意味になります。

ゆるゆるその2
前回、写本には、ビザンチンテキスト、西方テキスト、アレクサンドリアテキストという3系統があることに触れました。エラスムス版が新約聖書の最初に印刷されたギリシャ語原本になったこと事にも触れました。エラスムスが参考にした写本には、「ヨハネ断章」とよばれたり「ヨハネの文節」とよばれる箇所がなかったのでした。残されている写本の大部分には「ヨハネの文節」がないのです。ヨハネの手紙1の5章7節と8節の間に「ヨハネの文節」とよばれる箇所が挿入されるのです。
*(7節)証しするのは三者で、(8節)霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。
「ヨハネの文節」岩波版新約聖書改訂新版の注による
*天で証しする者が三人いる。すなわち、父とことばと聖なる霊である。そしてこの三者は一致する。また地上で証しする者が三人いる。すなわち(8節に続く)
この「ヨハネの文節」箇所が、「三位一体」の教義の根拠とされた箇所なのです。
当時の神学者たちは激怒して、エラスムス版の改定を要求したのです。エラスムスは結局圧力に屈して、改定してしまったのです。
さすがに、それはやりすぎだというわけで、本文からは省かれて、「ヨハネの文節」箇所については、注にこういうのもあるという例として載せられいます。

ゆるゆるその3
ヘブライ人の手紙2章9節
*ただ、「僅かな間、天使より劣るものとされた」イエスが、死の苦しみのゆえに「栄光と誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死をあじわわれたのです。
注に、「神の恵みによって」の異文として「神なしに」と書かれています。「神なしに」は「神から離れて」と訳される場合もあります。
イエスの死は、神の恵みと祝福の中で迎えた死だったのか、神に見捨てられて苦しんだあげくの死なのか、どっちなのというわけです。神はイエスの受難に介入した結果、イエスは死んだのか、介入しなかった結果、イエスは死んだのか、どっちなのというわけです。イエスの死に際しての苦痛は恵みの結果のものだったのか、神なしだった結果のものだったのか、どっちなのだというわけです。
これはヘブライ人の手紙全体を読めばわかりますが、イエスは、あらゆる点において通常の人間と同じ、苦痛と死を体験したと、著者は書いています。
イエスは人として受難を体験し、神の子なら当然受けるべき神の助力も与えられなかったのです。イエスの生は、イエスの死によって完結したのです。

ゆるゆるその4
聖書の異文問題に触れると、こう言う結論すら導き出されるのです。キリスト教の信仰は聖書のみに基づくのは不可能である。テキストは不確かなもので、信頼の置けないものである。一方カトリック教会などには、使徒伝承が引き継がれている。いわゆる聖伝といわれるものだ。だから、カトリック教会などの教えは正しい。聖書は、信仰の基盤を提供するが、究極の重要さは聖書それ自体ではない。なぜならば聖書は写本という形で何度も改竄がなされているのが普通である。カトリック教会のように聖書と聖伝(使徒伝承)をセットにして考えなければならないのだ、という主張には一理ありますね。もっとも、老舗のプロテスタント教会、ルター派、カルバン派教会などには、聖伝にあたる、それなりの教理がありますから、聖書のみというわけではありません。ルターにしてもカルバンにしても聖書のみというのは単なるスローガンで、実態はそうではないのだと考えているのです。