BOOK REVIEW: 吉田茂という病 : 杉原誠四郎・波多野澄雄 NO. 2 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

BOOK REVIEW: 吉田茂という病  日本が世界に帰ってくるか  杉原誠四郎・波多野澄雄共著       NO.2

自由社、令和3年12月20日発行。

 

日本の占領解除後、敗戦利得者によってWGIPの継承、維持、発展が成されて、教育により子孫が自虐史観に陥り、

 

いまだに憲法改正が出来ず、皇室の問題を解決出来ず、国防軍の設置も出来ず、近隣諸国の軍事的脅威により日本国家の安全保障が脅かされている。

 

大東亜戦争で最も多くの犠牲者を出したのは、昭和20年8月15日に20歳から35歳だった人たちで大正生まれの人たちだった。

 

36歳から60歳の人たちが日本を動かしていた時に起きた戦争です。

 

その動かしていた人たち21万人が占領下で公職追放によって、国家、社会の指導的地位から追われた。

 

その空いたポストに就いた人たちも、36歳から60歳の明治後半に生まれた人たちだった。

 

この人たちの多くは、敗戦がなければこういう地位に就けない人たちだった。

 

私から見れば、志が低く、他者を思いやらず、個人的利益のみを追求する人たちだったと言わざるをえません。

 

1.第1番に挙げたいのは、当時の東京帝国大学の法学部教授宮沢俊義です。

 

最近出た「ドキュメント 皇室典範ー宮沢俊義と高尾亮一」(高尾栄司著・幻冬舎・209年)に出ています。

 

昭和21年2月13日、マッカーサー草案なるものが日本側に突き付けられた。

 

幣原内閣の憲法問題調査委員会の委員であった宮沢俊義は、極秘の草案を手に入れて南原繁東京帝国大学総長のところに持ち込み、総長の下に法学部の主だった教授を集め、学内に憲法研究委員会が作り、宮沢は委員長に就任した。

 

その草案を元にして日本国憲法の解釈を行った。

 

第1条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であっての「象徴」ですが、これはマッカーサー草案のまたその元となった、

 

マッカーサー三原則の「天皇は元首である」から出て来た表記であって、つまり「元首」であるが故に「象徴」となった訳です。

 

それを知らないで占領軍に媚びて解釈すれば「象徴」であるが故に「元首」ではないという解釈になる。

 

東大法学部は後者の解釈を正しい解釈であると喧伝し、そしてそれが今日の日本の官民挙げて”公式”解釈になっている訳です。

 

宮沢を含め、当時の東京帝国大学法学部の糾弾については、倉山満「東大法学部という洗脳」(ビジネス社・2019年)があります。

 

2.横田喜三郎:東京帝国大学法学部教授。

昭和20年10月付に外務省の中で「ポツダム宣言受諾及び降伏文書の法的性質、ポツダム宣言及び降伏文書と主権」なる報告を行っています。

 

そこでは「ポツダム宣言」は条約と解することが出来るとはっきり言っているが翌年昭和21年11月30日に出した「ポツダム宣言と日本の将来」では、「日本は太平洋戦争に完全に敗れ、無条件降伏をしたと述べている。

 

昭和16年の「最後通告」文について外務省に相談されて、問題ないと言ったが、戦後は「最後通告」は国際法上宣戦布告にはならないと言い出した。

 

昭和23年8月には、天皇制は民主主義に矛盾すると言い出し、昭和天皇退位まで言い出した。

 

そんな横田がその後最高裁判所判事になり、文化勲章まで授与された。

 

横田も典型的な変節の徒であり、典型的な敗戦利得者です。

 

3.海後宗臣:戦前、東京帝国大学文学部教育学科の助教授だった。戦後は、東京大学教育学部を創設した人。

 

占領軍は、昭和20年12月31日に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」なる指令を発してこれら三つの科目を中止するという指令を発します。

 

ところが、昭和59年、アメリカの公開された占領文書で分かったが、海後は、事実上、逆のことを言って、占領軍のこの指令を唆すような勧告書を提出していたことが分かったのです。

 

修身停止の指令は、再開を前提とした司令だったが、海後は、占領軍に迎合する積りで「社会科」の開設を進言した。

 

それで社会科の開設は、修身再開は不要ということに成っていきます。

 

海後は、日本の教育の伝統であり、アメリカの担当官も評価していた「修身」を潰した張本人になります。これで日本の教育は戦前との繋がりが切れてしまうんです。

 

海後の「敗戦利得者」としての行為によって日本の教育学は不正常になって今日に至っています。

 

4.ワシントンの日本大使館にいた参事官の井口貞夫と一等書記官の奥村勝蔵も敗戦利得者である。

 

日米開戦に当たって「最後通告」を指定時間に手交できず、日本海軍の真珠湾攻撃を無通告の攻撃となさしめ、アメリカの国民をして「リメンバー・パールハーバー」と叫ばせ、日米戦争を原爆投下まで拡大させる原因たる事務失態を犯した二人の人物である。

 

この二人が、占領終結前後に、外務次官に栄達しました。

 

吉田茂の采配に因るものですがこのような辞令を受けるべきではなかった。

 

「最後通告」の遅延が日米戦争をいかに凄惨なものにしたか。

 

ルーズベルトがその事務失態を活用したからには違いないが、無条件降伏方式を米国民が信じて疑わなかったのは、日本が意図的、計画的に騙し討ちをしたと思い込んでいたからです。

 

トルーマンが原爆投下した時、真珠湾の仇を討ったと言ったんです。

 

5.政治家としては、吉田茂が突出した敗戦利得者であり、親玉ですが、もう一人、典型的な代表者として佐藤栄作を挙げておきます。

佐藤栄作は、昭和29年、造船疑惑事件を起こします。

 

自民党幹事長であった佐藤は、逮捕直前になったが、吉田茂が法務大臣を使って指揮権を発動させて逮捕を免れさせるんです。

 

佐藤栄作が首相在任中に、吉田茂が亡くなり、これを国葬にします。

 

吉田茂の死を国葬にすることによって、彼を大宰相に位置づけ、吉田への批判を封じ、吉田の作り上げた日本の歪みを固定化させ、それを国民が気づくことが出来ないようにしてしまった。

 

吉田によって生まれた日本の歪みを「吉田茂という病」と呼ぶならば、佐藤はその病を慢性化させ、重症化させ、治癒し難いものにしたということです。

 

6.吉田茂は、ポツダム宣言について、昭和21年7月4日、衆議院本会議であっさりと次のように答えています。

 

総理大臣吉田茂「ポツダム宣言は条件なりやというお尋ねが在りますが、これは条件ではなくして、日本降伏の条項の内容を成すものであります。

 

ポツダム宣言は日本降伏の内容を成すものであって、所謂条件ではありませぬ。」

 

7.昭和28年7月23日には、参議院内閣委員会で木村篤太郎保安庁長官を使って保安隊は近代戦に対応しうる実力を備えていないから戦力ではないというような、安全保障の本質を無視した法解釈を日本国家の正式な解釈をするわけです。

 

これもいかに吉田が首相としての器ではなく、慎重さを備えていないかということがわかります。

 

昭和25年5月、ダレスがやってきて、再軍備を要請した時に9条の問題が始まる。

 

ダレスは、吉田が喜ぶと思って再軍備を促したら、吉田は第9条を盾にして再軍備は出来ないという。

 

ダレスが再軍備の要請してきた時にこそ、かの戦争の開戦には日本側にも言い分があったことを一言言ってくれと、それこそ一言言っていたに違いないではないですか。

 

喜ぶと思って再軍備を要請したら、再軍備を断るのでダレスは吉田に呆れて怒り蔑むことになるわけです。

 

ここでも第9条を巡って、結局、WGIPの効果の継続を図ったのは日本側であり、敗戦利得者の親玉たる吉田茂に依ってではないですか。

 

8.外務省は最も戦争責任を負った者が占領解除後、中枢を占めることに依って、戦争責任を隠し、戦争に関しては全て日本が悪いのだという謝罪外交に徹することになる。

 

WGIPの継承、維持、発展の機関となっていく以外に方法がありませんでした。