BOOK REVIEW : 近衛文麿 野望と挫折 林 千勝著 NO.2
山本五十六、永野修身、米内光政、風見章たちの謎
「山本五十六」
昭和16年12月8日未明、太平洋で真珠湾攻撃の幕があがりました。
山本五十六連合艦隊司令長官は、早くから空母機動部隊による奇襲攻撃の有効性に着目して真珠湾攻撃を成功させる一方、米国の力を正確に把握していた開明的な海軍将校との像が、多くの人々に受け入れられています。
山本長官の戦死が日本の戦争遂行に大きな打撃を与えたというのが一般的な語られかたです。
無謀で不合理な陸軍に対して、先進的で合理的な海軍というイメージの代表格が山本長官ですが、それは真逆なのです。
山本連合艦隊司令長官が、真珠湾攻撃によって大東亜戦争の「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」における「米国をあまり刺激せず米国艦隊はその来襲を待つ」という対米戦略、そして西進戦略を破壊します。
「腹案」と根本的に矛盾する裏切りの作戦です。
アメリカ国民の反戦感情を零にして全アメリカ国民を一挙に戦争へと結束させ、「日本討つべし」「枢軸討つべし」の大合唱を沸き起こしたのです。
山本五十六は、若い頃のアメリカ駐在、ハーバード大学留学時代や駐米大使館付き武官の頃から真珠湾攻撃を思い描いていたという説があります。真珠湾攻撃が山本の信念になっていたのです。
山本は派手好きで博打好きでした。
そんな彼を何故連合艦隊司令長官に任命し、しかも、まるで日米開戦を待つかのように、昭和16年8月の通常の任期を超えて、長期間任せたのでしょうか?
真珠湾攻撃前提のトップ人事です。
彼を長官に任命したのは、米内光政海軍大臣です。
真珠湾攻撃には、海軍省軍務局や作戦部の大反対が続きました。
これらの反対論は、攻撃自体の危険性の指摘と共にアメリカの非戦の世論が激変することを危惧した合理的なもので「腹案」の戦略思想と軌を一にするものです。
「永野修身」
けれども昭和16年10月下旬から11月初めにかけて、永野修身軍令部総長は、真珠湾攻撃を裁可してしまいます。
彼はこの裁可した理由を、戦後、東京裁判の検察尋問に答えて証言しています。
「山本大将は真珠湾攻撃ができなければ部下と共に辞職すると脅したのです」
「私は、海軍軍務局の方が理にかなっていると思ったので腹案に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。一番良いのは承認だと思ったのです」
暗に「口に出来ない理由があった」と述べていることにもなります。裁可した永野の背後には闇があります。
永野修身は、アメリカ駐在、ハーバード大学留学、駐米大使館付き武官などアメリカ絡みの経歴が特徴的です。
検察への証言の後、永野は冬の寒い巣鴨プリズンで窓を割られたままにされ、裁判途中の昭和22年1月2日急性肺炎にかかり、両国のアメリカ野戦病院に移され、三日後に亡くなりました。
まるで殺されたようだと言われています。
彼の死後、拘置所の部屋に残された裁判関係資料、手紙,諸記録などは妻に引き取られました。
しかし、それらがぎっしりと詰まった大きなトランクは、妻と娘が高知の自宅へ持ち帰る途中の列車で盗まれてしまうのです。
妻は新聞広告を出してまで必死に探しましたが無駄でした。
山本と近衛は、しばしば密に情報交換をしています。昭和16年9月12日にも、近衛と山本は秘密裏に会っています。
「最初の1年や1年半はともかくそれ以降は見込みがない」ことを山本は近衛に正確に伝えています。
風見章と山本は、親密な仲でした。
風見は山本への手紙を新聞記者に感づかれないようにとの理由で、秘書ではなく長男の博太郎に持って行かせていました。
山本から風見への手紙は、風見自身が終戦後すぐにすべてを焼却します。
焼却しているとき、長男の目についたのは、近衛、山本、米内からの多くの手紙だったのです。
「米内光政」
米内光政は、第1次大戦開始後のロシアに少佐として2年間駐在、大戦終結の年に再びロシアやその周辺に長くいたことが目立つ経歴です。
彼の著しいドイツ嫌いは有名です。風見と米内はとても親しい間柄で、盛んに行き来していました。
風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六次官がいて、3人で様々な策を練りました。
風見は、米内や山本との機密事項の連絡には電話を用いずメモや手紙を使い、秘書に持たせず自分の長男に持たせています。
尋常ではありません。
山本、永野、米内たちは、親友でした。山本と米内は風見と親友でした。
「風見章」
近衛は、第一次近衛内閣のかなめである書記官長に風見章という共産主義者を抜擢します。
風見章は、明治19年2月12日茨木県水海道生まれ。早稲田大学政治経済学科を卒業後、大阪朝日新聞や国際通信の記者を経て長野県の信濃毎日新聞の主筆となります。
さらに昭和2年「女工哀史」問題の発火点として社会を騒然とさせた岡谷製紙争議に加わります。
労働者や農民の立場で論陣を張って大きな話題となりました。風見は、共産党員とともに女工たちへ尋常ならざる支援をしてストをおおいに鼓舞したのです。
彼は社説に共産党員と同じ運動論を連日にわたって展開しました。
風見は、昭和2年12月から3年1月まで「マルクスについて」という署名記事を信濃毎日新聞に12回連載しています。
特に後半6回では「共産党宣言」を最大級の賛辞とともに紹介しました。
この署名記事はあまりにも大きな反響を呼びました。
昭和初期の出版会は左翼本の洪水であり、共産党が非合法化された戦後の比ではなかったと言われています。
どこの書店にもマルクスの資本論、マルクス・エンゲルス全集、レーニン選集、スターリン全集があったと言います。
マルキシズムが一世を風靡していたのです。
このような時世で軍人たちも影響を受けたと思われます。
特に軍人のエリートがアメリカやロシアやドイツ、イギリスに単身で赴任した場合、共産主義者に狙われる危険が十分にあります。
山本は、派手好きで博打好きですから、アメリカで共産主義者に接触されハニートラップなどで弱みを握られたかもしれません。
米内は、ロシアですから共産主義者たちが黙っていません。
日本海軍や陸軍も広く世界を見てくるようにと思って送り出したとしても弱みを握られて敵国のために行動されたら、たまりません。
現在でも財務省のエリートがアメリカ留学を勧められてウオール街で帰国後アメリカのために働くように洗脳されています。
官僚のエリートの外国留学を見直す必要があるように思います。
日本人は、人が良いので騙されやすいのも事実でしょう。