BOOK REVIEW : 日米開戦 陸軍の勝算  林 千勝著  「秋丸機関」の最終報告書   | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

BOOK REVIEW : 日米開戦 陸軍の勝算  林 千勝著 

「秋丸機関」の最終報告書  NO.1

 

この本の第3章の「山本五十六連合艦隊司令長官が、大東亜戦争を壊した」を見て衝撃を受けました。

 

私は、以前から大東亜戦争を研究していて、山本長官の行動に疑念を持っていたのだが、はっきりと断罪した著書を見るのは初めてだった。

 

この本の目次は次のようだ。

 

第1章:「陸軍戦争経済研究班」(秋丸機関)が、大東亜戦争を創った。

第2章: 帝国陸軍の科学性と合理性が、大東亜戦争の開戦を決めた。

第3章: 山本五十六連合艦隊司令長官が、大東亜戦争を壊した。

第4章: 歴史の真実を取り戻せ!

となっています。

 

「秋丸機関の誕生と研究」

 

大日本帝国陸軍は、昭和14年秋、我が国の最高頭脳を集めた本格的なシンクタンク「陸軍省戦争経済研究班」をスタートさせました。

 

我が国に経済国力がないことを前提として,対英米の総力戦に向けての打開策を研究するためです。

 

帝国陸軍にあってこの研究班の設立を企画した中心人物は、岩畔豪雄大佐という人物です。

 

彼は、謀略、諜報、防諜などの秘密戦の教育機関である中野学校を創設し、「国防国策十年計画」において大東亜共栄圏を発案するなど、我が国きっての戦略家でした。

 

「陸軍省戦争経済研究班」は、秋丸機関と呼ばれました。

 

その理由は、岩畔大佐の意を受けて、秋丸次朗中佐が班を率いたからです。

 

秋丸中佐は、昭和7年、陸軍経理学校をトップの成績で卒業した後、派遣学生制度により東京大学経済学部で2年間学びました。

 

その後に満州に渡り、関東軍参謀付きの経済参謀として満州国経済建設の主任をしていました。

 

昭和14年9月、満州から呼び戻され、戦争経済研究班へ赴任して、岩畔大佐に会い、岩畔大佐の研究班の設立趣意と熱い思いを聞かされ、受諾しました。

 

「陸軍省戦争経済研究班長」(秋丸機関長)としての秋丸次朗の誕生です。

 

秋丸中佐は、最も重要な英米班を立ち上げるにあたって、治安維持法違反で検挙され保釈中の身であった、マルクス経済学者で東京大学経済学部助教授の有沢広巳を主査に招きました。

 

他に、独伊班、日本班、ソ連班、南方班、国際政治班を大学教授たちを主査として立ち上げました。

 

各班が15名から26名ぐらいなので総勢百数十名から二百名程度の組織でした。

 

精力的に情報収集を進め、各国の機密情報や内外の資料約9千種を収集しました。

 

そして膨大な収集資料を整理・分析し、約250種の報告書を作成しましたが、現時点では、百種強を確認できます。

 

「昭和16年7月の戦争経済研究班の最終報告」

 

昭和16年7月に、杉山参謀総長ら陸軍首脳部への戦争経済研究所の最終報告は、

 

「英米合作の本格的な戦争準備には1年余かかり、一方、日本は開戦後2ケ年は貯蔵戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能。

 

この間、輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を、インド洋における制海権の獲得、海上輸送遮断やアジア植民地攻撃によりまず屈服させ、それにより米国の継戦意思を失わせしめて戦争終結を図る。」

 

正に時間との戦いであり、日本は脇目も振らずに南方圏そしてインド洋やインドを抑えるべしです。

 

これに対して杉山参謀総長は「調査・推論方法は概ね完璧」と総評しています。

 

 陸軍省戦争経済研究班の結論は、帝国陸軍の科学性、合理性が指し示す方向そのものであったのです。

 

この報告書を基にして「対米英蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」は、昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議にて、大日本帝国の戦争戦略、国家戦略として正式決定されました。

 

しかし、実際の戦争は、ご存じの通り、山本連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃によって、この腹案を無視して始められ、我が国は悲惨な敗戦に向かっていくのです。

 

山本長官の太平洋における無謀な米国との戦争について、この「陸軍の勝算」の概要をNO.2において書くつもりです。