奥山篤信 ロシア映画<裁かれるのは善人のみ LEVIATHAN>2014 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

奥山篤信 ロシア映画<裁かれるのは善人のみ LEVIATHAN>2014
~神の沈黙 ソ連崩壊後のロシア社会の偽善と欺瞞を鋭く描くリアリズム~

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何という下らない日本語の題名を作ったのか、まさにこの映画をこれほど短絡的に表現した映画界の知能指数がわかるというものだ!レヴィアタンとは旧約聖書の『詩編』『イザヤ書』『ヨブ記』に登場する海中の怪物である。


『ヨブ記』では、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには荒れ狂う荒波となり、口から炎を、鼻から煙を噴き出す。口には鋭利で巨大な歯があり体全体は鎧のような鱗がある。性格は凶暴そのもので冷酷無情である。


トマス・ホッブスはこれを肯定的な意味で<コモン・ウエルス>の意味に用いたが、映画では<現代ロシア社会>のどうしようもない病理と閉塞感として描いている。<父、帰る>によりベネチア金獅子賞の栄誉に輝いたロシアの新進気鋭のアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の作品であり第72回ゴールデングローブ賞外国映画部門に輝いた。

ソ連は約75年間共産党が支配し1991年に崩壊するまでまさにイデオロギーによる共産党特権階級が権力を恣(ほしいまま)にした。その後遺症はいくら新生ロシアといってもその巨大な組織と特権階級を、欧米的な競争主義的資本主義国家に変える事はできずに現在に至っている。


一方支配される側も75年間イエスマンとして言論や経済の自由活動から疎外された教育がDNAとして染み付くまでになっているからだ


結局かっての権力者はイデオロギーというある意味での<共産主義にある理想的倫理観>のプロパガンダですら消え去り、それに代わり<露骨な権力と金の亡者>による価値観こそがレヴィアタンとしてロシア社会を蹂躙するに至ったのである。


さらにロシア正教会は国民の不満の懐柔の権力の手先としての存在でしかなくなった。教会のみならず司法・警察すべてがこのレヴィアタンの歯車として、一切の正義を打ち砕く悪の組織と化してしまったのだ。

映画は旧約聖書列王紀上21章のナボテのぶどう畑を巡りアハブ王にけしかけるイザベル王妃の陰謀を<権力が一般人の土地所有に対して権力濫用>を行うという筋書きを連想させる。


北極海の一部であるバレンツ海沿岸の寒村で自動車修理工場を営みながら、一族が代々暮らしてきた家で妻子と暮らす主人公。


再開発のため、土地買収を画策する悪徳市長による強行策に、主人公は旧友の弁護士をモスクワから呼び寄せ、権力に対抗するのだが空しく敗退する。


さらに家庭内に後妻と子供との間に感情的もつれがあり、妻の疎外感が出来心の弁護士との不倫により家庭まで崩壊寸前となる。怒り心頭の主人公と子供、それでも主人公は妻を<赦す>ことにするのだが、妻は自殺してしまう。


さらにレヴィアタンは妻の自殺を殺人とし、彼を冤罪で15年の刑に処すのだ。破れかぶれの状況で、子供を引き取る友人夫妻だけが唯一の隣人愛としての救いだ。

この悲劇の主人公は妻の自殺後、主教に『神はどこにいるのか?』と尋ねるが、『教会にも行かず懺悔もしないではないか』と一蹴される。


<神の沈黙>についてキリスト教が常套手段として逃げる御都合主義といえるヨブ記のヨブを引用するのだった。信心深いヨブが不条理な事態においても、外部の雑音も撥ね除けひたすら信心を続け、その後幸福が訪れたと語る。


そんなお伽話があるかと怒る主人公、それはお伽話ではなく聖書だと答える主教!教会のミサで権力に癒着した主教が奏でる空々しい聖書朗読、空しく響くだけである。


『神は真実に宿る。真実に生きれば神はその人に宿ります。』そこには子供連れで参列した悪徳市長の姿があった。キリスト教の宗教としての偽善と欺瞞への怒りの圧巻ラスト・シーンといえる。

僕はこの映画を見てまず黒沢明の『悪い奴ほどよく眠る』そして松本清張の暗黒社会劇を連想した。妻が自殺する断崖絶壁はまるで、あの能登の自殺名所を思い出させる。この映画僕は今年始め巴里で見たが、今頃日本で封切りだ。(月刊日本12月号より)

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