地球史探訪 : 沖縄は中国の領土なのか? NO.1 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

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地球史探訪 : 沖縄は中国の領土なのか? NO.1

 沖縄が我が国の領土であるのは、多くの先人たちの努力の結果である。

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■1.中国の沖縄領有論

 中国は尖閣諸島のみならず、沖縄の領有権についても主張し始めた。次のように報じられている。[1]

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 8日付の中国共産党機関紙、人民日報は第2次大戦での日本の敗戦により「琉球の領有権」は日本になくなったとした上で、沖縄の「領有権」問題を議論すべきだと訴える論文を掲載した。・・・

 論文は政府系の中国社会科学院の研究員らが執筆。琉球王国が歴代の中国王朝に対して朝貢を行う「冊封国」だった経緯を説明した上で「琉球王国は明清両朝の時期には中国の属国だった」とした。

その上で「(当時は)独立国家だった琉球を日本が武力で併合した」とし、尖閣と同様、日本が敗戦を受け入れた時点で日本の領有権はなくなったとの認識を示した。
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 領有権論争を沖縄まで広げておいて、尖閣諸島の対立を有利に展開しようという狙いであることは明白だが、こういう問題は一笑に付していてはいけない。国際社会では、日本側が黙っていれば、言った者勝ちになってしまう。


■2.中国領有論の変化球としての沖縄独立論

 今回は、菅官房長官がすかさず「(論文が)中国政府の立場であるならば断固として受け入れられない」と反論したが、こういう問題では国民一人ひとりが史実を踏まえた上で、政府の主張を支持する必要がある。

 中国も日本の国民世論の反応を見ながら手を打っているので、国民の間で轟々たる非難の声があがれば、それが中国に対する抑止力の一つとなる。逆に国民が醒めた態度でいれば、中国は「隙あり」と見て、さらに攻勢を強めるだろう。

 中国の沖縄領有論の根拠については、弊誌393号「超速! 沖縄・琉球史」で吟味した。そこでは、薩摩藩が実質的に琉球を支配下に置きながら、琉球を通じて間接的に対清貿易を行っていた。そして、そのために、形式上、清国の服属国という形をとっていたのだしかし、服属国という形式は、その後の日清間の外交で、けりがついている。

 中国領有論のバリエーションとして沖縄独立論がある。沖縄はもともと独立国家だったのに、日本に併合されて独立を失った、という史観である。もし沖縄が独立できれば、当然、沖縄経済は自立能力がないので、中国に頼らざるえず、その衛星国として中国の覇権下に組み入れられてしまう。

 今回は、沖縄に関する日中の駆け引きを歴史的に辿ってみたい。そこから、国家にとっての領土とは何なのか、が見えてくる。


■3.沖縄の中にあった中国人コロニー

 沖縄の歴史が明瞭になってくるのは、12世紀頃からだ源為朝が沖縄本島南部の豪族の娘との間にもうけた舜天(しゅんてん)が王となり、沖縄を統一したと言われている。沖縄の旧家の長男に「朝」の字が多いのは、「為朝」にあやかりたいという願望からだと言う。[2,p71]

 1372年に、舜天の子孫の察度王(さつどおう)が明の光武帝に朝貢を求められ、恐る恐る従ったら、その莫大な返礼を見て驚いた。以後、琉球王国は中国の華夷秩序に依存し、明との朝貢貿易で稼ぐようになる。

 明は鎖国政策をとっており、外国船の出入りも朝貢船に限定されていた。明と貿易をしようとすれば、明の服属国として朝貢貿易をするしかなかったのである。さらに明は冊封国に中国人を在留させて、朝貢貿易の政務を担当させた。那覇市内の久米という地域が、中国人の居留区となっていた。

 寛永21(1644)年、明が滅び、清が成立したとき、満洲族の支配を忌避して、明人(漢民族)の36姓の部族が亡命してきた現知事の仲井真弘多氏、前知事の稲嶺恵一氏とも、この36姓の子孫である。

 久米では19世紀になっても中国語が話されており、日清戦争の終了まで、沖縄を中国圏に置こうと画策していた。現在も約3千人の県民が中国子孫を自認しており、約10億円の共有預金と会館を運営し、団結は固い。

 歴史的に戦乱や飢饉の続く中国大陸から大量の難民が国外に脱出してきたが、その子孫が東南アジアでは多くの国で華僑として経済的実権を握ったり、またサンフランシスコやバンクーバーでも閉鎖的な中国人コロニーを築いて、現地社会との摩擦を起こしたりしている[a]。そのミニ版が沖縄にもあったのである。


■4.薩摩藩の琉球経由の中国貿易

 慶長14(1609)年、薩摩軍が約3千人の部隊をもって琉球に進攻した。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦以降、外様となって財政難に陥っていたこともあって、琉球王国の朝貢貿易に着目したのである。

 琉球士族は公家のような贅沢な生活に慣れており、簡単に薩摩軍の占領を許した。島津家久は、尚寧王以下、百余名を江戸や駿府に帯同して、徳川家康、将軍秀忠に拝謁させ、島津家は幕府から琉球太守に任ぜられた。

 薩摩は琉球経由の間接貿易に力を入れた。沖縄のサトウキビを大阪市場で独占販売し、その利益で本土の文物を沖縄に送り、中国に朝貢させて、その返礼で巨大な利益を上げる、というシステムである。薩摩の役人が琉球王府役人に扮して進貢船に乗り込んだりもしていて、中国側も気がついていたが、利益のためには目をつぶっていた。

 琉球王府は北殿を日本式に、南殿を中国式に建造して、それぞれの使節を歓待していた。王族一門も朝貢貿易から上がる利益で、奢侈な生活を営んでいた。

 薩摩藩も、この間接的な中国との貿易で得た経済力を使って、倒幕、明治維新を果たしていくのである。



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