佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 374」 | 護国夢想日記

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 日々夢みたいな日記を書きます。残念なのは大日本帝国が滅亡した後、後裔である日本国が未だに2等国に甘んじていることでそれを恥じない面々がメデアを賑わしていることです。日本人のDNAがない人達によって権力が握られていることが悔しいことです。

佐藤守   「大東亜戦争の真実を求めて 374」
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このような、一般国民を裏切るような軽率な行動が、軍や政官界の上層部で行われていたとしたら、とてもミッドウェー大作戦に勝ち目はなかったというべきだろう。


 いや、大東亜戦争自体に勝ち目はなかった。いくら兵士たちが勇敢であっても…



 ミッドウェー作戦では、戦力的に不利な米国側は情報収集に懸命だったのだから、マジックの抜けを埋める意味でも相当なヒューミントが行われたことは想像に難くない。

 赤坂は海軍省の、新橋は連合艦隊の御用達、したがって中立国経由の赤・青情報はもとより、ゾルゲに代表される「同盟国・ドイツ」の動きも十分に警戒すべきものであったが、日本人は、同盟国人は“味方だ”と勘違いしていた。



 そんな虚々実々の駆け引きが行われている中である。山本長官は、右翼からばかりか、当然スパイの最大目標として狙われることが予想されていたはずなのに、彼の行動には、信じられないほど軽率な行動が多かった。

 大西瀧次郎中将がが山本を訪問したさい、長官室外で長時間待たされたので、無断で入室したところ、莫大な慰問品、内地からの名産品などに囲まれた山本が、せっせと“返礼の手紙”を書いていた、という証言を書いたが、「返礼の手紙」の内容によっては、機密漏えいに近いものも随分あったであろう。



  ミッドウェー作戦開始にあたっての、山本長官の信じられない行動は、生出寿氏の「勝つ司令部負ける司令部」にこう記されている。


 ≪五月二十七日、南雲機動部隊(正式の名称は第一機動部隊)がミッドウェーに向けて出撃した。南雲が直率する「赤城」「加賀」の第一航空戦隊、山口多門少将が率いる「飛龍」「蒼龍」の第二航空戦隊を中心とする部隊である。


 明治三十八年(一九〇五)のこの日、東郷が率いる連合艦隊は対馬海峡にバルチック艦隊を迎え撃ち、これを撃滅した。


 同じこの日、山本は東京の愛人河合千代子に次のような手紙を書いた。千代子は山本より二十歳年下の新橋芸者で、昭和九年以来の深い仲である。

――あの身体で精魂を傾けて会いに来てくれた千代子の帰る思ひはどんなだったか。(中略)



 私の厄を皆ひき受けて戦ってくれている千代子に対しても、私は国家のため、最後のご奉公に精魂を傾けます。その上は――万事を放擲して世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。

 二十九日にはこちらも早朝出撃して、三週間ばかり洋上に全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思いますが。今日は記念日だから、これから峠だよ。アバよ。くれぐれもお大事にね。


 うつし絵に口づけしつつ幾たびか、千代子と呼びてけふも暮らしつ――


 このころ千代子は肋膜炎で病状がかなり重かった。しかし山本は、「大和」が呉に入港した五月十三日の夕刻、千代子に電話をかけ、ぜひとも呉まで来てくれとくどいた。


 千代子はそれにほだされ、死んでもいいという気になって呉に来て、旅館で数日山本とすごしたのである。


  「私の厄を皆引き受けて戦ってくれている」というのを見ると、山本は難問を抱え、前途に光明を見いだせず、ユーウツな日々を送っていたようである。

  

  「最後の御奉公」というのは、MI、AL攻略作戦か、ハワイ攻略作戦までか、はっきりしないが、ハワイ攻略作戦は山本の主張だから、そこまでということなのかもしれない。


 「その上は――万事放擲して……‥二人きりになりたいと思います」は、作戦がかたづいたら、連合艦隊司令長官も、海軍大将も、妻や子も放り出し、人目につかないところで千代子と二人で暮らしたい、ということであろう。よほど現在の立場が苦しいようである。

 

 「二十九日にはこちらも早朝出撃して……全軍を指揮します」からは、山本が率いる主力部隊の行動がかなり明らかに推定される。連合艦隊司令長官はこのような機密でも女に知らせていいのか、と思わされるくらいである。


 「多分あまり面白いことはない」は、米機動部隊は出てこないだろうから、撃滅できず、面白くならない、ということであろう。


 「今日は記念日だから、これから峠だよ」というのは、今日は日本海海戦の海軍記念日だから、これから米海軍との勝負のヤマにかかってゆくという意味と思われる。


 「うつし絵」はいわずもがなだが、千代子の写真である。
戦は戦、女は女、それでよかろう。


 しかし、機動部隊が出撃してゆく日に、連合艦隊司令長官が、このような手紙を女に書くというのはどうであろう。


 明治三十八年の日本海海戦の日、東郷は、大本営あてに、「連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」と打電し、自分が乗る「三笠」を先頭に立て、主力艦隊を率いて鎮海湾から戦場へ向かった。


 東郷のこの姿勢と比べ、いくら敵が見えないとはいえ、山本のこの姿勢はあまりにもちがいすぎる≫
蛇足だが、ウイキペディアの「山本五十六」の人間関係の項にはこうある。


 ≪(山本は)新橋に愛人をかこっていた。梅龍と名乗っていた河合千代子で、1930年(昭和5年)のロンドン軍縮会議直前(山本は日本側代表)に深い関係になった。


  河合によれば、宴会の席で威張っていて無口だった山本を誘惑しようとしたが、逆に彼女の方が参ってしまったという。河合と山本は互いの事を「お兄さん」「妹」と呼んでいる。


 山本は多くの手紙を河合に書き、1941年12月4日、山本はバラの花束を河合に与え翌日の手紙で「この花びらの散る頃を待つように」と伝えている。真珠湾攻撃は4日後の12月8日だった。


 河合が肋膜炎を病むと頻繁に手紙を送り、12月28日には『方々から手紙などが山のごとく来ますが、私はたったひとりの千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか』と書いている。


 寵児だった渡辺安次参謀を代理として見舞わせた程である。河合の家には、宇垣纏を始めとする連合艦隊参謀が度々訪れて世話になっていた事が、山本から河合への手紙で判明している≫  (元空将)
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「蘇れ美しい日本」  第1229号


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