私を大きく変えた小さな事件、いよいよクライマックスです。

これは10年前に書いたメルマガです。

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ではどうぞ☆

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2001.11.3

ごめんなさい。支配人と支配人のおごりで飲み明かしてません。

「マジ?飲んだのー??ドッヒャー」
と思った方がいらっしゃいましたら
比喩表現だった、ということでお許しください。

というか、私の脳内では飲んだんですよ。(笑)


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「対立」と「融合」
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突如雷に打たれたような衝撃を受けた私でした。

ヒントは、うどん屋に行く途中の弟さんたちとの会話にあった、

「フロント坊やと飲みに行きたいなあ」

にあったのです。

そして、

「そりゃあ誰だってお金欲しいよね。分かる分かる」

にあったのです。

そう、大事なのは、

「ホテル側の気持ちも私たちには分かる」

ということなのです。

フロント坊やと飲みに行って、
「さっきはごめんねー」と言ったり
「支配人ってそんなに怖いんだ」とか
「研修なんてほとんどなかったんだ。
そりゃあ電話料金のシステムなんて知らないよねえ」
という会話をするということは、
すでにわれわれとフロント坊やは敵ではありません

そして会ったことも話したこともありませんが、
もし仮に私が支配人の息子さんと結婚して親戚になったら、
私と支配人は敵ではありません。

むしろ、同じグループの人間になります。身内になります。
そうしたら情も移ります。親切にします。親切にされます。
(そうならない身内もいますが、仮定です)

もしくは友人としてでも、
「これ、ぼったくった電話料金で浮いた金だからおごりでいいよー」
と言われたら、ちゃっかりおごってもらうかもしれません。
「わーい。ラッキー」と言って嬉々として。

自分が被害を受けていなければ、
「おぬしも悪よのう」とか言いながら、
笑ってそのお金で飲み食いしてしまうかもしれません。


という私がいるのです。

私はこのくらい、しかねない人間なのです。

残念ながら、私は聖人君子ではありません。

それどころか、お恥ずかしながら、
むしろそういった徳は低い方の人間かもしれないくらいです。

…と思い至ったとき、マスコミやら世論(そしてホテルに対する私)は、
悪事を叩いている時に

「自分は生まれてから一回も悪いことなんてしてません。
自分はいつも正しくて清くて、人に言えないことなんてしていません」

という顔をして叩いている
ことに気付きました。

「いやいやほんとに、そんなこと思いもしないですよ。おお、怖い怖い」
という感じで。

それは、おかしいなあ。と思いました。

そして、きっとそれが、私の心の小さなしこりだったのです…。


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ぼったくりも汚職も、
「欲」に負けた人間の起こしたものだと思います。

確かに、安心してこの社会で生きていくために、
悪事は公正に裁かれなければならないと思います。

しかし、マスコミのいつもの叩き方は、
まるで自分の汚い部分を全くないことにして、
自分の汚い部分を潰そうとしている
かのように見えるのです。

自分の中にもある「欲」を見ないようにし、
ずるいこと、悪いことをする奴は許せん
(本音:うらやましい、おれだって我慢してるんだ)
というような叩き方、
つまり、「きれいごと」「正論」をぶつけて、聖人君子のような顔をして
「参ったか!思い知るがよい。フッフッフ…」
というやり方では、溝は深まり、広がるばかり
だと思いました。

目的は、「悪」を叩き潰して優越感に浸ることではなくて、
そういう事件が起きないようにすること
、のはずです。

そのためには、従来の潰し方では何も変わるまい、と思いました。

むしろ溝を埋めるためには、

自分の中にもある「欲」を認めて、
立場が変われば自分も同じことをしてしまうかもしれないと
リアルに想像する、

また、決して同じことをしないにしても、
「同じことをするという気持ちだけでもわかる」こと


が唯一の溝を埋める方法だ、と
稲妻に直撃されたように入ってきたのです。

というよりも、本当は、わからないような振りをしているだけで、
本当はみんな、いやと言うほどよくわかっているんです。
だって、誰でもお金は欲しいですから。
(本当に解脱しているような人は除きます…って何人いるんですかね。
ただ、解脱するには、自分の欲というものもよく味わったはずだと思います)

むしろ、お金に本当に興味がない人は、ああまでヒステリックに叩くでしょうか。

そして記事を読んで「正義は勝つのだ!」とスカーッとするでしょうか。

「金銭欲」、もしくはぼったくりが過ちだったとした場合でも
「保身欲」は自分にもあるもので、よくわかりすぎるから叩くし、
マスコミのバッシング記事を見て、多くの人が共感できるのだと思います。

支配人(ではなくても実際に利益を得る人間)と身内になって、
その上で仲間として

「でもさ、そういうことしてると見つかった時に結局、
余計打撃を受けるよ。あなたにとってよくないと思う」

とか

「そういうあなた、私は好きじゃないな。ちょっとがっかりだよ」

と言った方が、内面から本当に変わると思いませんか?

せめて、変わる可能性は生まれると思いませんか?

つまり、外側から理詰めでガンガン攻撃しても、
結局本質は変えられない
ということです。

むしろ攻撃することで、シャベルの裏側でパンパンパン…!と
土をかちかちに固めるような結果になるのではないでしょうか。

だから、「自分も同じものを持っている。本当はよくわかる」
と認め、受け容れてから、


「でもこれは間違っていますよ」
「他人から不当に奪うことは、許されませんよ」

という姿勢を持たなければ、
いつまでもぼったくりなどのいわゆる「悪いこと」はなくならないと思ったのです。

自分の中の欲や悪の部分を思い出して、
相手の気持ちになって、まず、心から「わかる」こと。


わかった振りでは意味がありません。

そうやって同じ側に立った上で「でもね…」と話すことが、
根本の解決
なのではないか、と思ったのです。

別々の「側」どうしのままでは、変わらないと思ったのです。

「思った」というより、「知った」という方が正確かもしれません。

つまり、溝越しに対立し合うのではなく、融合させる、ということです。


こう思ったら、駅までのいつもの景色が、キラキラ輝いて見えました。
まるで初めて来る場所のように感じました。


次号 「ホテルへの最終的なアクション」編へ続く

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はは。

暑苦しいです。
今のほうがもっとスマートに書くかな。
でも、このときの興奮をそのままお届けしますね。

しかし、このときに得た本質は、決して消えることはありませんでした。

> しかし、マスコミのいつもの叩き方は、
> まるで自分の汚い部分を全くないことにして、
> 自分の汚い部分を潰そうとしているかのように見えるのです。

ここですが、あえて「自分の汚い部分を」です。

他人を叩いているようで、本当は「自分の汚い部分を叩いている」のです。

ちなみに現在の私は、「汚い」「きれい」という分け方さえしていません。

ではまた明日!