
「でも、自信がなくて…」
仕事のことで悩む人から
この言葉を聞いて
考えてみた。
なにかにむかって
一歩ふみ出そうとするとき、
私もよくこの言葉をつかい
立ちどまってしまう。
不安、迷い、あせり…
そんな気持ちにおちいったとき、
ふと思い出すのがこの作品。
自分が本当にすすみたい方向、
想いの先をたしかめることができる。
…
「自信のあるなし」
宮本百合子
私たちのまわりでは、よく、自信があるとか、自信がないとかいう表現がされる。そして、この頃の少しものを考える若い女のひとは、何となしこの自信のなさに自分としても苦しんでいることが多いように思えるのはどういうわけだろうか。
一つには、女の与えられる教育というものが、あらゆる意味で不徹底だという理由がある。なまじい専門程度の学校を出ているということで、現実にはかえってその女の人の心がちぢかまるということは、深刻に日本の女性の文化のありようを省みさせることなのである。
でも自信がなくて、といわれる時、それはいつもある一つのことをやって必ずそれが成就すると自分に向っていいきれない場合である。成就するといいきれないから、踏み出せない。そういうときの表現である。けれども、いったい自信というものは、そのように好結果の見とおしに対してだけいわれるはずのものだろうか。成功し得る自信というしか、人間の自信ははたしてあり得ないものだろうか。
私はむしろ、行為の動機に対してこそ自信のある、なしとはいえるのだと思う。あることに動こうとする自分の本心が、人間としてやむにやまれない力におされてのことだという自信があってこそ、結果の成功、不成功にかかわりなく、精一杯のところでやって見る勇気を持ち得るのだと思う。その上で成功すれば成功への過程への自信を、失敗すれば再び失敗はしないという自信を身につけつつ、人間としての豊かさを増してゆけるのだと思う。行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置くのでなくて、どうして人生の日々に新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春に自信というものがあり得よう。
「婦女新聞」1940年5月10日号
「若き知性に」新日本新書より
…
宮本百合子。
作家で、
日本共産党の党員でもあった人。
昨夜、
ひさしぶりに本をひらいた。
戦前、
おもに女性にむけて
書かれたものだが、
時代をこえて
私の心をつき動かす。
「人の幸せのために、
だれもがよりよく暮らせるために」―
民青同盟の
仕事をえらんだときの
私の初心。
もとめられるものが大きくて、
それにこたえられていない
自分を責めることもある。
でも、
まわりの人たちに支えられ、
励まされ、学ばされ、
この初心に
立ちかえることができる。
「結果の成功、不成功にかかわりなく、
精一杯のところでやって見る勇気を持ち得る」
勇気をもって
行動しようとする芽を
簡単にふみにじるが
いまの社会。
「自分なんかいなくたっておなじ」
そう思わせる社会を
どうしても変えていきたい。
「あることに動こうとする自分の本心が、
人間としてやむにやまれない力におされてのことだという自信」
「行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置く」
百合子の言葉を
いつもポケットに
入れておこうと思う。
「自信」とは
いったいなんだろうか。
自信なんて、私もない。
自信を身につけること、
「人間としての豊かさ」を
ましていくことは、
きっと一人だけではできないはず。
みんなでいっしょに
迷って悩んで、励ましあって、
一歩ふみ出していくことが
自信へとむすびつく。
「自信」とは、
自分を信じると同時に
自ら人を信じるということ
なのかもしれない。