初めに。


先日、20代にして実の父を亡くしました。
その際に初めて喪主を務めて、「なんなのこの葬式って」とモヤモヤした気持ちがずっと心にあり、その気持ちをここに残すことを決めました。



まず、父の死因ですが、自殺です。

原因はお金と思われます。

元々、若い時からお金のトラブルがあったようで、常に借金を抱えてそれを隠すような人物でした。嘘で塗り固めたような男です。


本人も若い時は母と結婚し、それなりに仕事をしてきましたが、だらしなさと嘘つきはかわらず、やがて母も父と離婚しました。父が亡くなる数年前のことです。


父の死について自業自得、逃げ続けた弱い人間の末路かなと思っています。




葬儀をするにあたり


死亡確認がとれ、検討のつかない額の借金も見つかり頭が真っ白なまま、騒ぎを聞きつけだんだんと親類やらが集まってきました。

(某県の田舎なので、けっこう近くに親類がいます)


子供である私を喪主として、葬儀の話し合いが始まりました。


まず私の考えですが、その時は父の残した得体の知れぬ借金の存在を知り、そちらのことに気を取られていました。

なので葬儀については簡単に、少ない金額で、少人数でひっそりと済ませたいと思っていました。


いわゆる家族葬みたいなのをしたかったです。(長い闘病をしていたわけでもないし、ましてや自殺であったので)


が、ここで親類の横槍が入ります。

親類 「近所にはどう知らせる?亡くなったお知らせは出したほうがいいぞ」


私 「いや、褒められた死でもないから家族葬みたいなので済まそうと思ってる。お知らせはしてもいいけど、花も香典もいらないから」


親類 「そういうわけにはいかん。ちゃんとお知らせをして、今まで通りやったほうがいい」


このときからすでに違和感がありました。


父の兄弟などは「子供であるお前が決めたんだからそれでいい」という立ち位置ですが、私と離れた血縁(年齢も離れた年上)に限り、強い意見を言ってきます。


私 (核家族が増えて家族葬も定着してきているのに、何をこだわっているんだ…?)


ちなみに当時はコロナ禍前なので、田舎の葬儀は会館などを借りて参列者も多くいるのが当たり前でした。




違うことは許されない田舎ならではのしがらみ


なぜ家族葬ではダメなのか。


たしかに父と関わった人、葬儀に来たいという人などいるかも知れません。


あとで香典などもってくる人がいっぱいいるから、お知らせしてやったほうがいい。


それもあります。


ですが、こちらとしては香典はすべてお断りするつもりでしたし、あとで知って来て頂く方には何を言われようとも納得して頂く覚悟でした。


なのでそれを否定された時は、こちらの気持ちを踏み躙られた感覚でした。


誰が1番辛いのか。


そもそもなんのための葬儀なのか。


私 「花とかもいらないよ」


親族 「いや、きちんと俺の名前で出す。花も出さないなんて、まわりにも俺の顔がたたん」


私 (…は?)


ああ、この人たちは亡くなった家族のことより、自分の体裁を示すのにいっぱいなんだな。


はっきりそう思いました。


なぜこうも個人を尊重する気持ちがないのか。


今までと違うことが怖い?ほかがしてないからやらない?


あなたたちは「今までそうだった」というテンプレートに従ってるだけでしょ。


葬儀なんて亡くなった人を想う気持ちがあれば形式なんてどーでもいいと思ってます。


それより残された家族の力になってほしかった。



葬儀で集まった親族が喧嘩するなんて話もよく聞きます。


恥ずかしくないんですか?


亡くなった人を想ってくる葬儀ならそんなことにならないはず。

価値観の押し付け合いをする場にしてしまっては式をする意味が無いような気がします。




考察


数十年前までは誰かが亡くなれば大勢で見送る。それが当たり前でした。


なので年齢が上の方は、それしか知らないのも無理はありません。


また、葬儀は宗教観念も大きくかかわるため、信条によっては何々をしないといけない!ということもあるかもしれません。


年上の方たちも、さらに自分より年上の方に風習やらで怒られながら葬儀に関わってきたのかとも思います。


ですが、そもそも葬儀は何で行うのか?考えを放棄してはいませんか。




宗教と葬儀


はっきり言って、私個人は宗教は好きではありません。

個人的な見解であり、宗教を否定しているわけではありません。


同じ宗教なのに宗派があったり、考えの違いから争ったり。

本来は人々を救うはずのものであるのに、です。


どの説法でも、「難しいことは考えるのをやめて、神様の言うことを聞けばいい」というふうにしか聞こえないんです。



[神は死んだ]


かの哲学者ニーチェの有名な言葉ですね。


人間自ら科学で事象を証明し、神はいないと自分達で導き出しているにもかかわらず未だに葬儀では難しい話し合いがされています。


私の考えです。


宗教とはビジネスだと。


意味のわからぬお経を唱え、お坊さんに包みを渡して、手を合わせ、何か救われた気分になる。

救われるのはお坊さんです。


そろそろ自分達の考えで、旅立つ人を送りませんか。


皮肉にも、感染症の流行で葬儀の形もかわりました。


これからの葬祭ディレクターなんかは、枠にはまらない葬儀を提案するようになるかも知れません。


昔は大勢でやるのが普通、今は少ない人数でやるのが普通。


世界の常識は変わり続けています。


私たちも変わらなければいけません。


おわりに


これからの日本は、1人1人が考えをもって動かなければ生き残れない時代です。


また、それを認めないといけない社会になってきました。


もし、世の中に生き辛さを感じているのなら、他人を認め、自分を理解することで救われると思います。


他人の考えを認めるからこそ、自分の考えも認められる。お互いにお互いの考えを尊重し合う。


本来宗教もこうなのではないでしょうか。


これから来る、全てが加速する社会、お互いにお互いを尊重し合うことを忘れずにいきたいです。





父の葬儀で感じた思いを、世の中こうなってほしいという願いに転じてみました。


長い文章になりましたが、今の気持ちをここに書き記しておきます。



もしここまで読んで頂いた方には感謝申し上げます。

ありがとうございました。



20代会社員