教会で牧師の前に一人の男が立っている。
見た目はどちらもそう悪くはない。
牧師は悠然と微笑みながら、青い目をした迷える子羊に飄々と声を掛けてくる。
―おやおや、こんばんは。お久しぶりですね。
今日はどうして、泣いているんですか?
―悪かったな。どうせ俺は泣き虫ですよ…いちいち聞いてくるなよ。恥ずかしいから。
―関心があるからですよ。私は貴方の親みたいなものですから。…親が子を労わるのは、当然の事でしょう? …違いますか?
―違わない、けど俺ももう…二十超えている大人なんだから、いい加減子供扱いはよせよ。…いい加減照れくさくなる。
―(にっこりと笑いながら)…幾つになっても、親にとって子は子ですよ。無条件に親が子を愛するのは当たり前の事ですから。
―…世の中、自分への愛ばかりに目がいって子供を正しくみない親なんぞ、腐るほどいるけどな。
―だから私が、貴方の親のような存在になった訳でしょう? …強がりな貴方が私を頼る時は、大抵…心が弱っている時って相場が決まっていますからね。何を未だに苦しんでいるの?
―人を傷つけてでも、自分の行きたい道を貫かないといけないのかなって。俺が好きな事をしたいって道を選べば…ある人を追い詰めたり泣かせたりしちまう。
…いっちゃん、傷つけたくない人なのにさ。自分のやりたいこと、行きたい道を選ぶ事が相手を傷つけることになるのなら…俺はその道を選ぶべきじゃないんじゃないかって。
ずっと迷って…もうあれから一年以上経つのにさ。未だに刃物持つ度に自分なんか生きるべきじゃない気がして…切りつけて終わりにしてしまいたくなる。
…自殺がどれだけ、周囲の人間を傷つけるか。俺自身が他人にやられて、思い知らされたから…自制心でずっとその衝動を止めているけれど。
…自分の望みが、進みたい道が…一人の人間を苦しめるなら。俺の意思なんて凍ってしまえって…その想いが…苦しくて、苦しくて仕方ないんだ。
なあ、どうしたら良いのかな…ずっと、一年以上そこから…俺は動けないでいるよ。
―貴方の為さりたいように。人を傷つけてでも貫きたい想いなら、それを貫き通しなさい。…それが貴方が下した結論じゃなかったんですか?
…それなら振り返ったって過去に戻れる訳じゃないんです。グラグラしているだけ周囲の人間に大迷惑ですから、しっかり自分の足で立ちなさい。
…他人の為に、貴方は生きている訳じゃないんでしょう?
―うん。けど、怖い…思っている事を吐き出す事が…人を傷つけるのが本当に怖い。誤解されて受け止められる事が。曲解されて思ってもいなかった解釈されて泣き叫ばれて責められるのが…辛くて、未だに…本心吐くのが怖くなっちまっているんだ。
―…曲解してヒネくれた解釈するっていう事は、それだけその方の思考回路が歪み捲って、物事を正しく見ようとしていないからですよ。そんなのの意見や横槍に振り回されて…たった一度しかない人生を縮こまって生きて…本当に良いんでしょうかねぇ。(意地悪そうに)
―嫌っす。(きっぱり)
―それじゃ、貴方の好きなようにすれば良いんですよ。…はっきり言えば貴方の人生は貴方のものですよ。
人生を一緒に生きる伴侶以外の人間が、その年齢になれば…あれこれ口出しするものじゃないですし。他人の目にどう映ろうとも…正直関係ないですし。
良く映ったって、貴方自身が満足していたり幸せじゃなければ意味なくありません?
…ま、貴方が未だに引きずっている方は…生まれて初めて一緒になろうと思い、その為に血反吐を吐くまで泣きたいの我慢して、努力し続けたにも関わらず…報われなかったっていう感じですから。傷になるのも判りますよ。
相手もそんな貴方を理解しようとせずに…無理解と拒絶する態度しか最初取れなかった事を心から悔いているのを私はよ~く知っていますけど、貴方たちはもう別れて生きているんでしょ?
…なら、縛られる必要はどこにもありませんよ。…貴方たちはお互いに望んでいたものが違いすぎていた。ただそれだけの事ですから。
―まあな。俺は相手が望んでいた条件に合致していなかったし、相手はそれが満たされなくて泣いたりしていたから…。到底、俺が必要とされているなんて思えなくてな。
だからある時期から、どれだけハラワタが煮えくり返るくらい怒っていても…理性で優しくして「どうぞ、貴方がご希望の条件に見合う方といつか巡り合えますように」と心の中で祈りながら接するようになったんだけどな。
欲しい欲しいと駄々を捏ねて相手自身を捻じ曲げるより、潔くすっぱりと諦めて…相手の幸せを願う方が俺の性分には合うし、そちらの方が風通しがお互い良くなるなって思ったんだけど。
皮肉だよな。俺が欲しくて相手を追い求めている時は相手は逃げるか拒絶するかしかせず、俺が諦めて相手に何も望まずに友情なり、理性なりで優しくしたら…求めていた相手の愛が得られたんだから、太陽と北風のお話って、本当に良い訓話なんだなって思ったよ。
―だから、貴方は困ってしまった訳なんですね。…相手が愛を返した事を。
―うん。困った。諦めれば、身体は求めないで済んだから。相手が…性的なものを怖がるって知った時さ、自分の中のそういう欲求が一番怖かった。…一年までは、どうにかなった。けど…伴侶として相手を見る場合…本気で惚れた相手を抱かないで、心だけで満足して…一生それで生きていけるか。
…聖人君子なら良かったけど、俺はむしろ…そういう欲求とか強い方で。自分の伴侶にもそういう欲求を吐き出せなかったら、それこそいつか…性犯罪を犯す人間側に回っちまうと思ったから。
…一番嫌悪している人間と同じ側に、俺は立ちたくなかった。出来ない事を求められて無理にウンと言って…本当に心底愛していた人間を…いつか無理やり、抱いちまう事になるのが…怖くて、怖くて…仕方なかったよ…。最後まで出来るようになるのに後、2~3年は掛かるって言われた時…俺には、もう無理だって…だから、もう求めないで…友人でいよう。その立場を貫き通そうって…決意した訳なんだけどな(苦笑)
―けど、相手は…貴方にそれを求めてしまった。待っていて欲しいと…。
―本当に、人って難しいよ。離れているか、境界線をしっかり引けば…適切な距離を壊さないで済む。
…相手は怖かったから、受け入れるまで何年も掛かってしまう人だっていうの判ってる。けど…ちょっと触れる度に身を強張らせられたり、怖がられたりする度に…俺は、到底自分が受け入れられているとは思えなかった。…いつしか、そういう欲求を抱く事自体に…罪悪を覚えて、それが俺を切り裂き始めたよ…。
―…貴方は男性なんですから、それは至極当たり前の欲求ですよ。相手の女性は…貴方が「生身の男」であるという現実を正しく見ようとしていなかった。
…物語の中のように、清廉潔白で…相手の身体を一切求めないで…一途に尽くせる男なんて現実にはいませんよ。いたとしても百万分の一以下の低確率ですね。それぐらいの希少価値です。
どれだけ正しいと言われる男性だって、相手の女性を愛していれば淫らな欲求を抱くのは当たり前ですし…むしろそれが正常な反応です。それを止める理性が働くか働かないかの違いじゃないんですか?
貴方がそれを悔いる必要はまったくありませんよ。
―あんがと。そう言ってくれて。
―貴方が私に、心情を吐露したのは…赦して欲しかったからでしょう? …だから私はあくまで、貴方が望んでいた言葉を差し上げただけですよ。
―それでも、現実にそう言ってくれる奴はそうはいないさ。…後ろめたい事をすれば、それを告白すれば…大抵の人間は責めてくる。それが判っているから…なかなか、口に出せなくなっちまうんだけどな。
―ですがそれでは、人の心は決して救われませんから。…どんな罪でも、本人が悔いてさえいれば…私は赦しますよ。それが…人を過去から解き放つのに必要不可欠な要素ですから。
―罪、か。
―えぇ、貴方はこの一年間、片時も…相手の女性に対して罪悪感を忘れた事はなかった。だから…死にたい衝動を感じ続けていた。
…けれど、貴方はとても優しかったからず~と、その衝動を抑えて表面上は普通にし続けた。決して…その暗い誘惑に負けないで、生きて来たのでしょう?
…他者と諍いを起こした時、その最中で死のうとする事は…一種の当てつけであり、二度とお前なんかと口を効かない、仲直りなんてしてやるもんか!! って最悪の形で相手にぶつけるようなものですから。
それをどれだけボロボロになっても、しないでいただけ…貴方は偉いと思いますよ。
…貴方は相手に、七回はそれを過去にやられたにも関わらずね。
―けど、その歪で他者を労われなかった。大事にも出来なかった。沢山の…人の気持ちを蔑ろにした。傷つけたり、無作法もいっぱいしちまった。…俺が、自分の気持ちしか見えないでいたから。
―私が貴方を赦せば、徐々に出来るようになっていくでしょう?
貴方はまだ若いんです。…失敗したって、幾らでもやり直しは効く。むしろ今、出来る失敗を沢山しておきなさい。それが貴方が人を導き、育てる立場になった時…相手を寛容に見れるようになる事にも繋がると思いますから。サマリアの女の話を、知っていますか?
―聖書の中の話だっけか?
―えぇ。イエスズ様が…姦淫の罪を犯して、これから石打ちの刑に課せられる女性を前にしてこういったのです「この中で罪を犯した事がない者が、まずこの女に石を投げつけなさい」と。
そう言われて、まず年老いた男が立ち去っていきました。次はそれより少しだけ若い男が。そして中年の女が、青年が、少年が…それぞれ考えを巡らせて立ち去っていき、そして誰もいなくなりました。
「女よ、これで貴方を裁くものは誰もいなくなった。さあ行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」
…そういわれ、女は赦されました。この話は…誰しもが罪を時に犯すものだと、そういった人の愚かさと悲しさを…共感、という形で民衆が赦しています。
貴方はすでに罪を知っている。それなら…もし、他の誰かが罪を犯しても…こう言われれば、石を投げないでそっと立ち去る「心優しい民衆」と同じようにはなれるでしょう?
それなら…良いんですよ。自分が犯した罪を認めないで、責めるような人間になるよりもずっと。だから必要以上にご自分を責めるのは止しなさい。もう私が貴方を赦したのですから必要ないでしょう?
―そうだな。うん…ずっとさ、胸の奥に溜め込んでいたものをやっと吐き出せたから…楽になれた気がするよ。
―そう、ならお行きなさい。もう誰にも縛られなくても良い。
貴方がしたいようにする事で、相手が傷つき…また自殺をほのめかすような発言をして、泣き叫ぶのなら…それしきの事で、死ぬ死ぬ騒ぐ程度に…その人は自分の命を粗末に扱っているだけという事ですから。
…溺れている人間が、自分だけが溺れるのが許せないから…人を巻き込もうとするのと何ら変わりはないでしょう? それがかつて愛した相手であるだけに…心理的な衝撃が大きいのは判りますが…自分の傷だけを過大に見て、貴方がどれだけ…辛い思いをしていたか、慮ってくれない相手にいつまでも囚われているのは止めておきなさい。
どんな辛い恋も、三年も経てば自分の中で風化していきます。
…今は、時間がゆるやかに貴方の傷も痛みも塞いでくれるのを騙し騙しやりながら、やり過ごしていきなさい。それが恐らく…貴方たちにとって、最良の道であると思いますから。(胸元で十字を切りながら相手の為に祈っていく)
―判った。そうする。俺の懺悔を聞いてくれて有難う。神父…本当に、こういう時に…許してもらえる相手がいるっていう点で、俺は恵まれていると思うよ。
―貴方に幸いがありますように。いつもそれを私は願っていますよ…主もね。それをどうか忘れないでいて下さいね。
―ん、有難う。それじゃ失礼するよ…神父さんもお元気で。(そういって、教会の外に出ていく)
………あの神父、凄い良い人なのは判る。長年の付き合いだし…こうやっていつもいつも俺の心の重荷を軽くしてくれたし、親のように親身になってくれている。
けど…どうして、いつもこんなにどっと疲れるのだろう。
それは…答えは単純だな。多分、俺自身がそんなに良い人ではないから。
多分、神父さんよりも遥かに俗物で…悪い事もチラっと頭をよぎってつい実行に移しちまう小悪党だったりロクデナシな部分とかもあるんだよ。
…それが不純である、人間の証という奴なのかねぇ。
それでも…限りない労わりと理解で、包み込まれた事で…俺の心は以前の柔らかさを少しだけ取り戻した気はした。
だから心から、思う。
『赦しとは偉大だ』