ブログ・ザ・不易流行

自分のための言葉を見つける旅


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 2014年に文部科学省から全国の国立大学へ通達された「教員養成系、人文社会科学系学部の廃止や転換」を受けて、「文系学部不要論」なるものが出てきたことは記憶に新しい。要するに、今の文系学部でやっているような研究は、国家にとってあまり役に立たないし、学生個人のカリキュラムに関しても、実社会であまり役立ちそうにないことをやっているということだ。
 
 さらに言えば、理系学生が実験などで忙しくしている間に、文系の学生は、たいして勉強もせず、のほほんとした学生生活を送っているだけではないのかと。確かに、私の実感からしても、文系の学生は理系の学生ほどカリキュラムには追われていないようだ。
 
 私は、そうした文系の中でも、最も実学から遠く、「就職に不利」だとされる文学部出身者である。高3の進路決定の際、親から「理系じゃないなら、せめて法学部か経済学部にしておきなさい」と言われたように記憶している。でも、私は文学部以外には行きたくなかった。
 
 これはさかのぼっていけば、中学時代の若くて美人の国語の先生に「君は国語ができる」とおだてられて、その時から勝手に自分はその方面の適性があるんだという妄想(?)を抱くようになったことなども関係しているのだが。
 
 ともあれ文系志望者にとって、その学問領域で身につけたことを、現実社会の中でどのように生かしていくかということは、私が高校生であった時代から今の時代まで変わらずに続く問題意識であるということなのであろう。
 
 そこで私は、ここで高校生などの文系選択者に対して、将来有為な人材たるべく己を磨く手立てとして、次の三つのことを提案したい。それは大げさに言えば、文系進学者のミッション(使命)とでも言うべきものであろうと思う。
 
 一つは、「古典に親しめ」ということである。これは別に、私が「古典」という科目を教えている関係上、手前味噌で唱えているわけではない。そして、ここで言う「古典」とは、なにも『源氏物語』などの古典的な文学作品だけを指すのではない。音楽や美術などの他のジャンルをも含め、また洋の東西を問わず、時代を超えて親しまれ続けて来た著作物・作品全般を意味する。我々は是非とも、時代を経て、また地域を超えて享受されてきた古典のパワーを理解し、味わうべきだ。そのことは、我々の人間的成長にとって計り知れない糧をもたらすであろう。
 
  私は以前、巷には日本語の翻訳本で「演習」をしている英文科の大学があるということを聞いて驚いたことがある。そんなことでは、確かに文系学部不要論が出てきても反論できないであろう。いやしくも「英文学」を専攻として学ぶ以上、シェイクスピアをはじめとする華麗なる古典作品群のいくつかを、原書を用いて講読するのが当たり前ではなかろうか。さらに言えば、レポートや論文なども英文で書くのが望ましい。
 
 なんとなくテレビを観たり、ベストセラー本を趣味で読んで楽しんだりするということと、「学問」として文系分野を研究するということは、当然ながら区別されなければならない。その時々に面白そうな本を漫然と読み、苦労して言葉の壁を乗り越えてテキストを解読するという手続きなしに適当な意見を交わすことを「演習」と見なし、感想文とたいして変わらないような「論文」を提出するだけで学問を修めたような気になる文系学生よりも、研究室で実験を繰り返してひたすら科学者としての基礎力習得に励む理系学生のほうに軍配が上がるのは至極もっともであろう。
 
 思うに文系学生にとっての強みは、「語学」が出来るということと、世間一般の人たちがその価値を知りつつもなかなか手に取ることができないでいる、人類にとっての大切な知的遺産である「古典」をちゃんと読んでいるということぐらいではなかろうか。ところが、このうち語学に関しては、今や文系・理系を問わず身につけるのが当たり前のようになっているから、文系学生のアイデンティティとしてはもはや機能しない。
 
 次に二つ目のミッションは、「積極的にアウトプットせよ」ということである。我々は古典に親しむということをはじめとして、まずは旺盛に人類の文化的遺産をインプットしていかなければならないが、同時に自らの主体的に考え感じたことを発信していかなければならない。インプットとアウトプットは表裏一体で、外に向けて表現することで、よりよく内面を成熟させることもできる。
 
 己を表現できる機会を逃すな。人前でしゃべれ。文章を書いて発表せよ。舞台に立て。自分の書いたものを自分で読み返して自己完結しているだけでは、向上は望めない。人に読んでもらって批判を浴びよ。また、親しい仲間内でダベることにいくら多弁でも、しかるべき場でスピーチを頼まれて尻込みするようでは、人生は展けていかない。社会に出てからも、プレゼンテーション能力などがいかに大切なものであるかは周知のとおりであろう。
 
 ちなみに「プレゼン」と「売り込み」「自己アピール」を同一視し、それを少々謹みのない振る舞いのように感じる向きもあるようだが、「プレゼン」とは、他者に対して情報を的確に提示し、深い理解や納得を得る行為のことであり、極めてまっとうな、人間にとって本質的な手段のことである。
 
 私の高3の時の担任は、京大の哲学科を出られた英語の先生であったが、その先生が授業中に何気なく次のような意味のことをおっしゃったのが、今でも妙に記憶に残っている。
 
 先生曰く、文系で身を立てようとする者は、理系の者よりも「人格」がその業績に深く結びついてくる。理系の学問研究者に対しては、研究の成果・内容と、その人の人格がどのようであるのかということは、とりあえず切り離して評価される。例えば、理系の分野で世界的な業績を上げた研究者が、どのような生い立ちであるか、どのような生活信条を持っていたかというようなことは、とりあえずその研究内容とは関係がない。もちろん現代では、理系研究者が科学者としての倫理を持ち、自分の研究が人類や社会にどのような影響を及ぼすかということまで考えるということが求められるようになりつつはある。だが、理系の研究内容そのものと、研究者の人格は、とりあえずはあまり関係がないと見なされるのが自然であろう。
 
 ところが、文系分野、特に文学や哲学などおいては、その作家や研究者などがどのような生活歴を持ち、どのような人格であるのかということが、大きな問題となる。
 
 これは、文系分野が「人間」やその集合体である「社会」を探求する分野であることを考えると当然のことであろう。そして、なにも作家や研究者でなくても、文系選択者が将来携わるであろう仕事においては、人間関係処理能力を含めた「人格」、今はやりの言葉で言い換えると、「人間力」がより重要になってくる。極めて実際的なことを言えば、企業における営業などは、最終的には「人間力」がそのベースとなってくるであろう。
 
 最後に私の考える文系進学者の三つ目のミッションとは、「常に『人間力』を高めることを心がけよ」ということである。もちろんこれは、理系・文系などといった範疇を超えて、我々皆が目指していかなければならないことなのであるが、とりわけ文系選択者においては、ダイレクトに仕事内容にもかかわってくることであろう。
 
 最近「セルフブランディング」ということが盛んに言われるようになった。これはSNSなどで簡単に自分を「発信」できるようになった今の時代に、ブロガーなどが主に使い出した言葉なのであろう。自分の得意分野や意見などをHPやブログなどで発信することによって、企業や組織などの枠組みに縛られることなく自分の独自性を打ち出し、自らをブランド化していくという動きである。
 
 これなどはある意味で、新しい時代のアウトプット、「人間力」向上のツールかもしれない。とはいえ、もちろん安易な自己アピールに堕することは避けなければならない。また、「人間力」というのは、内面的な徳性をも含めた人格的な陶冶が基礎となるべきで、対外的な自己のブランド化などは、実利的な薄っぺらいものにすぎない、という批判もあるかもしれない。だが、こうした現代の技術文明の恩恵をも十二分に活用して、我々は自分を豊かに成長させていくべきであろう。
 
 以上、自堕落な文系学生であった我が身を顧みず、偉そうなことを書き連ねてしまったが、もちろん自戒の意味を込めたメッセージである。単に理数科目が苦手だから文系を選ぶ(?)のではなく、それぞれに高い志を持って文系を選択する学生が、もっともっと我が国の大学の文系学部を盛り上けていって欲しいと思う。私も遅ればせながら精進していきたい。
 

       古典に親しむコツ

 

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