ブログ・ザ・不易流行

自分のための言葉を見つける旅


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 いわゆる「国語力」ということが語られる場合、よく言われるのが、「理解する力(聞くこと・読むことの力)」と「表現する力(話すこと・書くことの力)」をまんべんなくつけさせるといったことである。そして、学校の授業では、ともすれば「表現力」よりも「理解力」の指導に時間を取られがちだとされる。また、「文字言語(読むこと・書くこと)の指導」に重きが置かれ、「音声言語(聞くこと・話すこと)の指導」が不充分になりがちであることも、よく指摘されるところである。このように考えると、「表現」であり、かつ「音声言語」でもある「話すこと」の指導は、最も立ち後れているということになるだろう。またこのことは、英語をはじめとする我が国の外国語教育においても同様だ。
 
 とりわけ高等学校の国語教育においては、小・中学校よりもさらに「話すこと」の指導が軽視されがちなのが実情である。少し大げさな話になるが、元来人類の歴史においては、音声言語が文字言語よりも先に存在したのは言うまでもなく、また個人史においても同様である。ゆえに、例えば高等学校の国語の授業における音声言語指導のパーセンテージが小学校低学年のそれに比べて少ないということは、ある意味で当然であるとも言えよう。
 
 だが、もちろんそれは高等学校における音声言語指導が軽んじられてもよいという理由にはならない。私は、高等学校の音声言語指導は小学校低学年のそれと質の違うものでなければならないと思う。言い換えれば、違うアプローチでなされるべきであるということである。このあたりのことについて少し考えてみたい。 
 
 われわれ高校の教師が、小・中学校の授業参観をしてまず瞠目するのは、発問に対する自発的な挙手の多さである。中学生でも高学年になると自発的に発表する度合いは減ってくるようであるが、それにしても我が高校における授業中の発問時の受け身的態度はどうであろう。まるで「沈黙は金」ということわざを実践しているかのごとき状態である。
 
 彼らは「表現」することが恥ずかしいのであろうか。そう、確かにそれは羞恥心による消極的態度なのであろう。さらに言えば、いわゆる思春期の「自我の目覚め」による自意識が発語の邪魔をしているとも考えられる。
 
 だが一方で、発語を妨げるこの自意識は、発語し表現している自分を見つめるという働きでもあり、それは大切にしなければならないものである。主体的に生きる社会人の基礎ともなるさまざまな「問題意識」は、そこから芽生えるのだとも言える。小学校の児童と高校生の違いもこの「問題意識」の有無にあると言えよう。そして、高等学校の表現指導の問題もそこにあると言える。そこでは、無邪気で開かれた子供の表現ではなく、内省的な自分の殻を意識的にこじ開けようとする試みがなされなければならないのである。実際、彼らが「本気で」自己表現しようとするならば、それは無邪気で軽々しいものではなく、かなり意識的、意図的なもの、さらに戦略的なものとならざるを得ない。ここで戦略的とは、設けられた「しかるべき場」において、ちゃんとした手順を踏むということである。
 
 そこで、われわれ指導者にとっては、高校生が自己表現すべき場をまず設定することが大切になってくる。自己表現したいという衝動と殻に閉じ籠もりたいという衝動をあわせ持つ高校生にとって、表現を強制されるしかるべききっかけが彼らの殻をつき破る「言い訳(エクスキューズ)」めいた作用をし、結果として彼らの表現欲を満たすことになるのである。
 
 さて、「表現」は、前述のように「話す」「書く」という二つの言語活動に分けることができるが、高校生の多くは「表現とは作文のことである」という意識を持っているようだ。そして、「作文」という行為は、日頃あまりそのような機会を持たない生徒にとっては非日常的な作業であり、作文の課題を与えられる場が前述の「しかるべき場」となり得る。彼らは「課題」を与えられ「評価」を受けるというプレッシャーのもとに「何をどのように表現するか」ということに頭を悩ませるのである。
 
 ここで私が言いたいのは、「肩の力を抜いて好きなことを自由に書いてはいけない」ということである。「ひょっとすると皆さんは、小・中学校の時に『好きなことを好きなように書いてごらん』と言われたかもしれない。しかし、高校生の作文はそれではいけない。大げさだが、頭を掻きむしりながら書いたものをかしこまって提出してもらいたい」といったようなことを伝える。生徒の方はこちらの意図をはかりかねたような顔つきになるが、私の意図は、彼らに「読み手である他者」を強く意識させるというところにある。「課題」「評価」というプレッシャーが、彼らに自意識の殻をつき破るきっかけを与え、さらに「何をどう伝えるか」という工夫やテクニックの重要性に対しても目を開かせるのである。
 
 このことは「話す」という領域においても同様であろう。おおかたの生徒達は、「書く」ことよりも「話す」ことの方がたやすいと考えているようである。だが、「しかるべき場」のプレッシャーのもとに話すことがいかに難しいかということは、一度でも経験してみた人なら誰にでもわかることである。友達同士のおしゃべりにおいていかに堪能な(?)生徒であっても、「一分間スピーチをせよ」と命ずれば途端にしどろもどろになってしまう。つまり、この生徒は日常の会話において堪能なだけであり、非日常的な音声言語活動においてはまだまだ練習を積むことが必要だということである。
 
 ともあれ、高校生の表現指導においては、自意識の殻を破るためのエクスキューズが可能な場を設定してやることがまず重要であり、そうした設定なしにやみくもに自発性を求めても、彼らの意欲を喚起することは難しいのではないかと思う。
                   
 さらに言えば、高校生だけでなくどの世代にとっても、「しかるべき場」の設定がなければ、自己を表現することは難しいものである。自分を語ることの「おこがましさ」が、われわれを萎縮させるからである。逆に、そういった場さえ与えられれば、己を開示することはたやすくなる。例えば、日常のやるせない心のもやもやは、誰かに愚痴ったり、「カウンセリング」なるものでカウンセラーに聞いてもらったりしてもよいが、それはある意味ではもったいないことだ。例えば「句会」に参加して、「俳句」という形式のエクスキューズによって表現したりするほうが実り多いと思うのであるが、いかがであろうか。
 

 

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