昨日のブログの続きです
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出口先生の授業を受け、
文章を読んで、らーじえー(=命題)を探す。
予備校に通っていたとき、
毎日毎日おこなっていました。
『A』らーじえーを赤線で引く。
ダースで買った赤鉛筆の消費が
一番多かった時期です。
そして、開始してから2年目の冬あたりでしょうか?
気づくと、あれだけ、わけわからない
外国語そのものに感じた日本語で書かれた文章が、
「著者は、こんなことを言いたいのではないか」
、、、と、なんとなくではありますが、
理解できるようになったのです。
嬉しい嬉しい感動でした。
夏目漱石の
『硝子戸の中』『思い出すことなど』『私の個人主義』
を読んで感銘したのも、その頃でした。
もし、出口先生の講義で論理的思考を学ばずにいたら、
私は一生、
漱石も、山崎正和も、埴谷雄高も、大江健三郎も、高橋和巳も
永遠に読めないまま、
この世を去っていたことでしょう。
コツコツ努力して、毎日毎日、文章を読み続け、継続し、
それなりの分量(←私にとっては、膨大な量に感じたけれど)をこなし、
それまで、できなかったことができるようになった。
20歳を過ぎて生まれて初めて経験したことでした。
たぶん、あの時の経験がなければ、
子どもの勉強にもここまで、
「やればできるかもしれない!」
という執着は持てなかったと思う。
「勉強は、やれば八割にはもってゆける」
そんな自信、到底持てないまま、
「リサのバカっぷりは、私の遺伝だからしょうがないわね」
「もともとが悪いんだもん。どうせ、やってもムダでしょ」
と、あっさり諦めていたと思います。
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その年度、出口先生の全講義が終わり、
予備校の教室で知り合った、年下の友達から
出口先生が代ゼミを去る噂を聞きました。
最後の授業が終わった後、
勇気を出して、震える声で、サインをお願いしたら
出口先生は、快くサインして下さいました。
色紙も考えたけど、
当時作っていたストックノートに書いて頂きました。
私の嫁入り道具のひとつになりました。
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私は、その後、夜学の短大を卒業して、就職し、
それでもやはり、
自分はまだまだ全然学びが足りない、もっと勉強せねば、
そう思い、
3年後、社会人入試で働きながら、
今度は念願の4年生の大学に通うことになりました。
またまた夜学です。
あたしは、どうも、日が暮れてからしか
受け入れてもらえないようで、
結局、太陽の下での明るいキャンパスライフは
一度も送ることはできなかったけれど、
それでも、大学に通えること、とても嬉しかった。
働きながら大学に通うのは
いくら若いとはいえ、
体力的にも精神的にも結構きつくて、
毎日睡魔との闘いでした。
それでも、
「やればできるかもしれない!」
若さゆえの無謀さが勝り通いきりました。
夜学に通っていた時分、私の頭の中にできた、
できたてホヤホヤの論理的思考が
のちの、レポートや卒業論文にも、大変、役に立ちました。
四年後、私は、大学の卒業証書を頂きました。
その時は、背中に羽がはえることもなく有頂天にもならず
冷静に落ち着いて証書を受け取ることができました。
少しは落ち着いた大人になれたのでしょうか・・・。
つづく
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