羽衣の松 百人祈り
1、趣旨
静岡市清水の土地に生まれて羽衣伝説や富士山の美観で観光客が訪れることは知っていても「三保の松原」や「御穂神社」の現状を知らない大人は、未来を育む大切な子供たちへ伝え残す大切なものを失っていることに気が付きました。
自然から湧きでる大切な河川を汚し、650年前から清水を守っている天女の松を見捨てる心は、土地に住む全ての大人の心の現れだと感じました。
三保の松を守る活動や河川をきれいにする活動も、一人一人の心の繋がりと継続があってこそ残せるものだと思いますので、土地を愛する人たちの心の繋がりを繋ぐ為に百人祈りを企画致します。
この土地を愛し育んだたくさんの先人たちの御心に感謝する祈りを捧げたいと思います。
ご賛同頂けます皆様のお力をお借りしながら土地を愛する人たちの心つむぎをお願い申し上げます。
2、概要 *以下
3、協賛金 1,000円 (奉納の太鼓演技代、松の栄養剤として)
4、実施日
2010年3月14日(日) 午前9時より
実行委員長 伏見佳寿子 SAKURA supreme studio 代表
清水に生まれ育ち、42年という月日が経ちました。
その年月の中でも『羽衣の松』に足を向けたのは数えるほどで、
『いつもそこに在るもの』、『在ってあたりまえのもの』くらいの認識しかなく、特に気に留めた事などありませんでした。
650年もの長い間、静かに佇み、評価を求める事もなく、あたりまえようにこの清水の地を守り続けてくれた果ての『羽衣の松』の疲れきった姿を見るまでは・・・。
私自身、歳を経るにつれ、『あたりまえのものなどひとつもない』と言う事が身にしみて感じさせられる事が増えました。
自分の身の回りの人や物、そのすべての存在にどれほどの愛をもらい、生きてきたのかをとても考えさせられるようになったのです。
勿論、楽しい経験、うれしい出来事ばかりではありませんでしたが、その経験と出来事さえにもすべてに感謝なのだとつくづく思えるようになりました。
そして、すべての人、すべての出来事に感謝なのだと気付くことができました。
人は許し、許され、生きているという事も・・・。
しかし、恥ずかしい事に、その事に気づいてからも、自分よがりな考えが起きた時に何度も何度も忘れがちになってはまた、『感謝』が大切だと云う事を思い出させるような出来事が起こり、反省してまた感謝に立ち返る・・・。
そんな繰り返しの日々である事もここに公表しておきます。
そんな私ではありますが、だからこそ感謝を忘れないように心がけ、すべてに感謝し、人生の幕を下ろすその時に、『私の人生、すべての人、すべての出来事が自分の味方だった。』、そう言えるように生きようと心に決めています。
そして私自身も、ほんの少しでも誰かの味方になれ、何かお役に立てる事はないかと思っていました。
そんな日々の中で、いろいろな方々との出逢いがあり、他県の方ともお話しする機会も増えた時に、清水の事を何一つ知らない無関心な自分に気付いたのです。
ある日、三保に住む友人と、ふと『羽衣の松』に行ってみようというとことになり、それ以前に訪れたのはいつだったかと振り返ると、なんともう20年近くの歳月が経っていたのです。
生まれてから成人するまでとほぼ同じくらいの年月が経たないと『羽衣の松』を訪れない自分を振り返った時に、なんだか自分自身でも不思議な感覚に陥りながらその松に目をやると、その姿に本当にドキッとさせられました。
『羽衣の松』のまわりの松は生き生きとしているのに、御穂神社の御神木であるその松だけが、その枝を何本かの添え木に預けなければ立っていられないほど弱っているのですから・・・。
それは即ち、『清水の現状』である事を、北海道からわざわざ『御穂神社』と『羽衣の松』を訪れてくださったある方から告げられました。
そういえば巴川も、その昔は本当にきれいな川だったのに、少し前までは『日本で一番汚い川』とまで言われていたと、潜水士をしている友人から聞いた事を思い出しました。
それらはすべて、清水に住む人たちの心のなさが招いている現状なのだと悟りました。
私を始めとする人間の都合で自然を侵し続け、目に見えない物への感謝の気持ちを忘れている事ですら、自然も神も受け入れ続けてくれている事を知りました。
そして、その寛容さに甘え、その上にあぐらをかいてこの清水に住んでいる自分をとても恥ずかしく思ったのです。
『羽衣の松』のまわりの、越えてはいけないと言わんばかりの白い木の柵を越えて、その御神木の幹に触れてみると、中が空洞化しているのが手から伝わってきました。
それでも何も責めることもなく、許し続ける愛の深さに触れ、胸が熱くなるほどの感謝の念が湧き上がるのと同時に、心の底から申し訳ない気持ちになりました。
どんな自分も受け入れ、許し、愛で包んでくれる『羽衣の松』に、人としての在るべき姿を学び、『今度は私に何か出来ないだろうか?』そう考えずにはいられませんでした。
そこで考えたのが、清水の土地を愛し、この土地に住む人たちと、心をひとつにして『羽衣の松』に感謝を伝えたいという事でした。
身を呈して、命を削ってこの清水の土地を守り抜いてくれてきた『羽衣の松』にお礼をしたいと思ったのです。
つまり、『千羽鶴』ならぬ、『百人祈り』です。
折り紙で鶴を折るのではなく、みんなで心を合わせて祈るのです。
『祈り』と言うと、特別な感覚を抱く方も多いかと思いますが、そんなではなく、人に何かをしてもらったらお礼を言うのと同じ、ごくあたりまえのことをしたいのです。
1人よりも2人、2人よりも3人、3人よりも100人の方がパワーがあるからです。
勿論、松に栄養剤をあげる事や、松のまわりの雑草を抜いて、松に栄養分がいくようにするという現実的な部分も絶対に大切であり、必要不可欠ですが、
もうひとつの側面から見て、人間の『心の在り方』を問い直し、気付いた事を行動に移して表現していく事もとても重要だと思うのです。
でも、ごく最近までの私がそうだったように、地元の人でありながら、一度も『御穂神社』にまいった事がない人や、『羽衣の松』を訪れた事がなかったり、気に留めていなかったりする人がとても多いのも現実です。
『百人祈り』はゴールではなく、『羽衣の松』を訪れ、その姿を目にし、現状を把握することによって、目に見えない物への感謝に気付くきっかけであると思っています。
それが、改めて日常の身の回りの既にある些細な事への感謝に気付く心を育て、それを表現することによって、より心豊かに『愛と感謝』に溢れた毎日を送るチャンスとなるという確信があります。
『羽衣の松』は、添え木に身を預けなければいけないような姿になってもなお、私たちの心を豊かにする機会をくださっているのです。
選択の連続の人生の中で、選択の自由の中で、迷わず、与えていただいたこの素晴らしい機会を活かす選択をしたいと思います。
それによって、自分自身がより心豊かに、いつも笑顔で、感謝に満ち溢れた人生を送ることがまた、『羽衣の松』への恩返しになると思います。
地元に住むある一部の方々が、『羽衣の松』のみならず、清水の三保の景観や、伝統を守る為に死力を尽くし、心を尽くして、人知れず地道な活動を続けてくださっている事さえも、ごくごく最近知った私です。
心から感謝するのと同時に、その心ある一部の方に任せっきりというのではなく、気付いた人が行動していく事こそが清水の地の気を盛り上げ、その気が『羽衣の松』を元気にし、これからも私たちを見守ってくださるお力を蓄えてくださるのだと信じています。
ひとりひとりがほんの少しいい人になれば地球が救えると思っている私ですが、私ひとりでは何もできません。
どうか皆様のお力を貸してください。
このお話しをしていく中で、『是非とも協力したい!』と、お知恵とお力を貸してくださると宣言してくださる素晴らしい方々にも出逢え、日々、同志の皆様が増えている事にも心から感謝申し上げます。
最後に・・・、私たちが『羽衣の松』から、どれほどのメッセージを受取り、それをまたどれくらい自分の人生に活かせるかが最も大切なことだと思います。
それが『愛』を、『感謝』を、次世代に繋いでいくという事に繋がると思うからです。
皆様と『愛と感謝』を紡ぎ、繋いでいける事に心から感謝申し上げます。
ありがとうございます。
感謝致します。
百人祈り実行委員長・・・・・伏見 佳寿子