何故かしら…「歴史(世界史)の終焉」をテーマにしたいと思い、ここ数回考察して参りましたが、(いい意味で)自分でも”思わぬ展開になった…”という感じがしております。前回までの「恒真命題(歴史の始まり)」、「矛盾命題(歴史の終焉)」という考察を、改めて当ブログ的に図式化してみると、

 

       恒真命題    文明の隆盛     矛盾命題

      歴史の始まり     ⇒      歴史の終焉

       神話      世界宗教      終末預言

            (釈迦・キリスト等)

 

 このように考えれば、結構スッキリするのではないでしょうか。この「歴史(世界史)」という”命題”も、論理的に考えるならば、やはり「恒真命題」から「矛盾命題」に展開していく形になってしまう…と改めて感じております。ベタな(変な)言い方をすれば、「何言ってんだ、そんなの当たり前だろ…(恒真命題)」から、「何言ってんだ、さっぱり意味が分からない(矛盾命題)」へと変化していく…という感じです。これは、物事(命題)を論理的に考える上での”必然的な変化”であると思われます。このように考えると、近代以降の様々な混乱的状況(特に思想やイデオロギー関連)が、”違う意味(矛盾命題的であるという意味)”で理解し易いように感じます。難解さで名高い…デリダ・フーコー・ドゥルーズらの”御三家”や、イマイチ釈然としない「ポストモダン問題」も、「矛盾命題(論理の最外端)」を前提にして考えた方が、逆にスッキリしてくる…と思うのです。最早、”言説として機能し得るのか…”位のレヴェルであり、「矛盾命題的状況」に陥ってしまっている…と考えた方が”手っ取り早い”と思うのです…。

 (前にも述べたが…)「ポストモダン」と言えば…、ミシェル・マフェゾリ(社会学者 ソルボンヌ大学教授)氏の「ポストモダンの定義…エピステーメーの飽和状態」がイメージし易いのではないでしょうか。ここで思うんですが…、ウィトゲンシュタインの「写像理論」では、「現実⇔論理絵」と対応しますが、所謂「ディスクール(言語表現の総体、言説空間)」は「世界(世界史)」と対応するのではないか考えております。つまり、「現実⇔論理絵」という図式を、そのまま「世界(語られる世界・世界史)⇔ディスクール(言説空間)」と当てはめて考えれば面白いと思うのです。そして、前期ウィトゲンシュタイン的な「論理絵・論理空間」から、後期ウィトゲンシュタイン的な「言説空間」という展開も考えられると思うんだが…。。

 ソシュールとウィトゲンシュタインによる「言語論的転回」、デカルトやウィトゲンシュタインの「独我論的傾向」、そして「ニーチェの『永劫回帰』」等の「転回・回帰」路線(?)は、「矛盾命題(論理の外縁・最外端)」を意識してのことで、寧ろ当然なのではなかったのか…。その意味での「善悪の彼岸(ニーチェ)」であり、「転回・回帰」するしか道が無かったのでは…と思うのです。キリスト教や仏教等の「世界宗教」が、一様に「終末・世界の終わり」を説いているというのも、非常に面白いですね…。