変化を望んでいる人はたくさんいる。
だが、実際に変化をしている人は意外と少ないもの。
思うだけで終わってしまっている。
行動がついていっていない。
一体、なぜなのか。
それは、今ある安心を失いたくないから、という理由が挙げられる。
変化は望むのだが、慣れ親しんだ環境で得た安心を壊してまで変化は望まない。
こんな想いを抱えている。
多くの人が・・・
望む想いと望まない想いの両方が存在する。
そして、望む想いよりも、望まない想いの方がより強く抱いているため、望まない想いが実現されている。
ゆえに、変化のない日々を過ごすことに・・・
ただ、考えてもらいたいことがある。
今ある安心は、半永久的に保たれているものなのかを。
今ある安心は、本当に安心と呼べるものなのかを。
今ある安心は、依存によって成り立っているものではないのかを。
人は、自分がどんな環境にいようと、その環境に安心を抱くようになるもの。
だが、残念ながら、半永久的に続く安心なんて存在しない。
何もしなければ、今ある安心は、いずれ崩壊するであろう。
なんたって、多くの場合、今ある安心は、何かに依存することで成り立っているものだから。
ゆえに、何かしらの原因で依存しているものがなくなると、自分の安心も同時に失ってしまう。
だから、依存している間に、依存しなくてもやっていけるように準備をしておくことがすごく大事になる。
ちゃんと準備していると、今ある安心は、より強固なものとなる。
そのため、動くことが大切なんやで。
なんせ、動き続けることで、今ある安心はより強いものになるんやから。
「大丈夫」とふんぞり返っていると、いざという時に、とんでもないことになる。
案外、そんなもの。
とにかく、今ある安心は、半永久的に続くものではない。
短い目で見た時に限り、安心と思えるものでしかない。
長い目で見ると、今ある安心は、安心と呼べるものではない。
でも、挑戦しないことで、今ある安心を保とうとしてしまう。
なぜなら、人は、直近の怖れに対して、過剰に反応してしまうから。
何も挑戦しないことは、長い目で見ると危険なことではある。
だが、挑戦することで負うかもしれない傷を回避することはできる。
だから、傷を負わないで済むために、挑戦を後回しにする。
そして、毎回毎回、後回しにして、挑戦をせずに過ごす。
すると、ある時、今まで当たり前にあった環境が一変し、安心を失ってしまう。
そうなって初めて、安心ではなかったことに気づかされる。
一見、何もしないことは、自分を守る手段として感じるが、実は、少しずつ少しずつ自分を蝕んでいる。
失うまでは、中々、気づけるものではないが・・・
ただ、普段からこの危険性を自覚していると、失わずに済むんよね。
なんせ、何もしないことが自分の安心を奪っている行為であることを認識した上で日々を過ごすようになるから。
この意識は、自分を突き動かす大きな原動力となる。
だって、人は、安心を追及する生き物だから。
留まっているだけでは、何もしない状態が続けば、今ある安心はもろくなる一方。
だからこそ、動き続けることが、挑戦し続けることが重要になるんやで。
こうやって生きていると、高い確率で、自分自身が着実に成長を遂げ、より強固な安心を築くことができているものだから。
安心は、動くことで、挑戦することで、より強固なものとなる。
一見、傷つくこと可能性がある行動ではあるが、実は、安心を強化する術だったんよね。
確かに、動けば、挑戦すれば、失敗することもあるし、傷つくこともある。
ゆえに、回避したくなるのも分かる。
けど、こういったことを重ねていくことで、自分自身が大きく成長していくことは明らかなこと。
しかも、成長し続ければし続けるほど、自分が抱く安心はより強くなる。
だから、動きなよ。
挑戦しなよ。
より良い安心を求めて。
今ある安心に満足することなく。
納得することなく。
妥協することなく。
なぜなら、今ある安心は、案外、もろかったりするんやから。
何かに依存するだけで、安心を得るのではなく、自分の成長を通じてより良い安心を得られるようにしておきなよ。
これが、いざという時に、活きてくるから。
とにかく、今ある安心は、半永久的に続くものではない。
何もしなければ、いつかは終わる。
だからこそ、今の内から、動きなよ。
挑戦しなよ。
その積み重ねが、自分が抱く安心を強いものにする術だから。
それに、強い安心は、自分で築いていくものなんやで。
こう自覚して、普段から過ごしなよ。
今ある安心は、決して、万全なものではないんやから。
万全な状態に近づけるかどうかは、自分自身の行動にかかっているんやで。
案外、そんなもの。
サコヤンの独り言
「今ある安心を過信しないこと」