ここ最近の間に、涙を流しましたか。
感動して涙を流しましたか。
心を揺さぶるものに出会い涙を流す。
ものすごく素晴らしい。
だって、それは、あなたの心が綺麗な証であり、そんな素晴らしい出来事に出会えたことが奇跡でもあるから。
涙を流す。
言葉にするのは簡単だが、実際はそうでもない。
なんせ、感極まって涙を流す機会って、日常ではあまりないものだから。
歳をとればとるほどに、そういった機会って減ってくる。
不思議なことに・・・
心揺さぶるものが減っているかというと、決してそうではない気がする。
なんたって、子供の時と違って、大人になれば、行動範囲がものすごく広くなるから。
行動範囲が広くなればなるほど、未知なるものと出会える機会は増える。
なのに、感極まって涙を流す回数は減ってしまう。
これは、単に歳のセイで片付けてはいけないものなんやろね。
歳のセイで済ますと、一見、聞こえは良い。
だが、実際は、原因を放棄しているだけなんよね。
歳のセイというもっともそうな言葉を使うことで・・・
本当の理由ではなくても、歳のセイという言葉を用いれば、そのように錯覚してしまう。
ゆえに、歳のセイという言葉は、ものすごく都合のいい言葉なんよね。
だから、ついつい使っちゃう。
ただ、心が揺さぶられ涙を流す機会が減った本当の理由は、別なところにあるのではないか。
それは、自分自身の心が鈍化していることが、大きな原因なんちゃうかなぁ・・・
様々なことを経験していく中で、自分の感情を押し殺すことが増えていく。
そうやって、感情を押し殺して過ごすことで、それが当たり前となり、新たなものを見ても、心からとらえなくなっているのではないか。
ただ、呆然と眺めるだけで・・・
自分の想いや考えをおざなりにして、淡々と作業をこなす。
そんな生活を過ごしている人は、案外、多いのではないか。
何気ない生活を繰り返し、自分の感情を封印してしまう。
だから、心を揺さぶられる機会が減り、感極まる涙を流す機会が減っているのでは・・・
でも、大人になっても、感極まって涙を流す人もちゃんといる。
こういう人って、単に涙腺が弱いだけでなく、感動する力が圧倒的に鋭いんちゃうかなぁ・・・
人が泣けないことでも涙を流せる。
ものすごく素晴らしい。
だって、涙を流せる人は、涙を流せない人よりも、深い経験を得ているんやから。
たとえ、同じものを見た場合であっても・・・
また、涙には、浄化(カタルシス)という作用もある。
自分の中にある感情や想い、しこりといったものも、涙と一緒に流してくれる。
もちろん、全部が全部流れはしない。
だが、少しだけでも、流れていくだけで、心はスッキリとする。
そして、感動した涙を流せる人は、涙と共に、心の中にある余計なものを排除できるから、また感動して涙を流しやすくなる。
心から余計な物がドンドンなくなり、ドンドン心が綺麗なる。
だから、感動して涙を流すことって、ものすごく大切なことなんよね。
なんせ、これは、ムチャクチャ貴重な経験だから。
素晴らしいものと出会い素晴らしい涙を流す。
そのためにも、普段から、自分の感情を押し殺していてはアカンのやろね。
嬉しかったら喜び、悔しかったら悔しさをぶちまける。
その時その時の感情を解放した方がいいのだろう。
感情を我慢するのが、必ずしも、良いとは限らない。
もちろん、物事を効率的に進めるタメには、感情を押し殺した方がいいのかもしれない。
けど、その弊害として、人として大切なモノを失うおそれがある。
できることなら、その時の感情をそのまま出して生きることが望ましい。
ただ、すべてにおいて、そうするのは現実的ではない。
だって、人は、人と関わりながら生きているんやから。
どうしても、折れなければいけない時もある。
でも、自分の感情を抑えることに慣れ、それが当たり前となるのはいただけない。
そうなれば、元に戻ることにも多くの時間を要してしまうから。
感情を抑えるところは抑えて、感情を解放するところは解放する。
このメリハリが大事になるんやろね。
そして、自分の感情を解放している人ほど、感動して涙を流すのではないか。
学校教育に始まり、自分の感情を押し殺して生きている時間は、意外と長いかもしれない。
心が大事と叫ばれている今だからこそ、そんな自分を解放するのに、ベストなタイミングなのではないか。
なんだか、そんな気がする。
いくつになっても、感動した涙を流せるためにも、できる限り、自分の感情はあるがまま出していこうではないか。
なんたって、それが、自分への更なる魅力につながっていくんやから。
サコヤンの独り言
「感動した涙を流せる人ほど素晴らしく映る」