【床本】宇治川蛍狩りの段 | さきじゅびより【文楽の太夫(声優)が文楽や歌舞伎、上方の事を解説します】by 豊竹咲寿太夫
■生写朝顔話
宇治川蛍狩りの段
武士の、八十宇治川と名に流れ、底の濁りも夏川や、水の緑も涼しげに、花香はこゝか一森や、貴賎老若差別なく、たぎる茶釜の湯気に立つ、名さへ出花の通円が、店は人絶えなかりけり。
かゝるところへ立派の武士、出家伴い小吹筒破子、肩に打ちかけこれもまた、床几をかりの足休み、腰打ちかけて膝ならべ、
「なんと月心老。拙者国元より京師へ上り、儒学修行のうち、ふと嵐山にて御意得しが縁となり、今では竹馬の友同然。あれこれと誘ひに預り、初めて見物する宇治の里。山の姿川の流れ、また格別の眺めでござる」
「ヲヽ宮城氏の仰せのとほり、袖ふり合ふも他生の縁。イヤモ心隔てずおん申しあるゆゑ、愚僧も風雅の友を得て祝着に存ずる。これより平等院へ参詣し、頼政の古跡扇の芝を見せ申さん。しかしかう見晴した景色を題にして一首所望」
と乞ひければ、
「ハヽア拙者もをこがましながら、ふと浮んだる一首の口ずさみ。腰折れながら御添削」
と用意の短冊取出し、矢立の筆のはしり書き。さら/\と書き認め、出せば、月心手に取上げ、
「エヽナニ『諸人の行きかふ橋の通ひ路は、肌へ涼しき風や吹くらん』ハヽア面白きこの夷曲歌。古今の本歌を取りしは秀作々々。実に涼しき風薫る、夏なき宇治の夕げしき、類ひあらじ」
と吟じ、かたへに置けば、さっと吹く風に捲かれて短冊は、ひらり/\とひらめきつゝ、川辺の船へ散り込みけり。
月心驚き、
「ヤこれはしたり、折角の秀逸を風に取られたり。たしかにあの船、取返さん」
と立つを宮城は引止め、
「ハテ戯れの口誦み。御捨て置き下されう」
と、止むる折しも、御座船のうちぞ床しき葭障子、透間洩れ来る三味の音。
〽︎したひ来て寄る辺の蛍さへ、妹背かはらで逢ふ夜半を、重ね扇の風薫る、匂ひを慕う蔦葛、ながき契りやつくも髪。
「ハテやさしい調べ。声といひ曲といひ、芸能器量も揃ひし美人ならん。アヽ惜しむらくは傍にゐて、聞かざることの残念」
といふに月心打笑ひ
「ハヽヽヽヽ日ごろ、堅い貴所も、あの音声にはなづまれしな。ヤそれは格別先だっても申すとほり、拙僧が和歌の友、秋月弓之助方へ貴所を入家させ申さんと、かねて話し置きしが、先にも懇望貴所も承知。近々日を見て見合ひいたさせ申さん。イヤこれはしたり。大事の法用をはたと失念いたした。ヤ無礼ながら拙僧は、これよりすぐに興聖寺へ参り、後刻菊屋方にて御目にかゝるでござらう」
「しからば必ず旅館にて相待ち申す。まづそれまでは」
「おさらば」
と互いに契約、月心は、寺をさしてぞ急ぎ行く。
御座船は障子引明け
「申し申し御寮人様。また暮れ果てぬ夕景色、テモ綺麗なこと。チト三味線止めてごらうじませ」
となに心なく顔さし出す、舷に以前の短冊。乳母浅香は手に取りあげ、
「コレごらうじませ。どこやらから短冊が船へ散りこみました」
と渡せば、深雪手に取り上げ、
「『諸人の行きかふ橋の通ひ路は、肌涼しき風や吹くらん』ホンニやさしいこのつらね。墨つぎといひ、誰が口ずさみぞ床しや」
と見やる陸には阿曽次郎、思はず見合はす顔と顔、互ひに見とれる目の中に、通ふ心をいは橋の渡してほしき思ひなり。
かゝる折から川辺伝ひ、浪人めきし二人の酔ひどれ、なんの会釈のあらけなく、船へ飛込み深雪が傍、尻引きまくり大あぐら。
浅香ははっと深雪を囲ひ、
「どなたかは存じませぬが、女ばかりのこの船へ、なんの御用でござります」
「エヽなんの用とはさりとは不粋。いま橋向ひの料理屋で一杯きめこみ、橋の上から聞いておれば、どうもいへぬ唄ひ方ぢゃ。酒の間をしてやらうと、思ひ思うて押付け客。お娘の盃いたゞかう」
とずっかりいへば、浅香は興醒め、
「ムヽ女ばかりとあなどっての狼藉か。不肖ながら芸州岸戸の家老、秋月弓之助が息女の遊山、妨げしやるとためにならぬぞ」
とおどせば、いっかなせゝら笑ひ、
「ハヽヽヽヽヽオヽ弓之助でも槍之助でも、かう乗込んだらすめではいなぬ。四の五のいはずと娘と酒盛り。いやとぬかせばどいつもこいつも、縛り上げて念仏講じゃ」
と弱みへ付込む傍若無人。
『憎し』と宮城阿曽次郎、船へ立入り詞を和らげ、
「これはこれはお若い衆、酒機嫌で戯言か。この船は拙者が預りの女中客。得知れぬ他人と酒宴はいたせにくし。余の船へござれよ」
といへば二人は目をむき出し、
「ムヽ女ばかりとあの玄妻がぬかしたに、われが預りの客とは。エヽそんな古手なことで行くのぢゃないぞよ。悪く洒落るとこりゃかう」
と言いざま掴む胸づくし、逆手に取ってぐっと捻上げ、
「ヤアいわせておけば様々の狼藉。手向ひいたさば酒の代り、水喰はぬうち早く帰れ」
と右と左にもんどり打たせ、背骨も折れよと刀の峰打ち、りゅうりゅうはっしと打ちのめせば、「アイタヽヽヽ、イヤモ痛み入ったるおもてなし。もはや御免」
と四つ這ひに、岡へやう/\這上り、後をも見ずして逃帰る。
続いて追はんとゆく袂、深雪は押止め、
「アヽコレ申し、どなたかは存じませぬが、危いところをあなたのお蔭。なんとお礼を申さうやら。ノウ浅香」
「はいはい、イヤモこの礼がちょっきりちょっとは申されませぬ。幸ひありあふお盃。なにはなくとも酒一つ」
といふを押へて、
「アヽイヤイヤ、必ずお構ひ下されな。拙者も待合はす人がござれば、はやお暇」
と立つを浅香は引きとどめ、
「女ばかりのこの船中、またどのやうな狼藉者が来うも知れませぬ。長うとは申しませぬ。船頭の戻るまで」
「ムヽさやうに仰せらるゝを、押して帰るも心なき業。しからば船頭の帰るまで」
「アレ申し、いてやろうと仰しゃるわいな。ソレ御寮人様。ちゃっとその盃を」
といへば、深雪は顔打赤め、
「思ふに任せぬ船のうち、お慮外ながらお盃を、戴きましたらいかばかり、お嬉しう」
とその後は、いはでの山の岩つつじ、あたりまばゆき風情なり。
「これはこれは痛み入ったる御挨拶。先刻承れば岸戸家の御家老、秋月弓之助殿の御息女とや。われら宮城阿曽次郎と申す者。お馴染みのため頂戴」
と呑んでさいたる盃に、深雪は嬉しさ押頂き、いひたいことも人目の関、しんきらしげに浅香をば見やれば呑込むとほり者。
「ヲヽこの船頭衆は遅いこと、腰元衆と連立って、そこら見物がてら参りませう。阿曽次郎様とやら暫しの間お頼み申します。ソレ御寮人様、随分と心残りのないように、ナ、心いっぱい御馳走を。ドレ、一走り」
と気をとほし、皆々引連れ上り行く。
阿曽次郎はつきほなく、見廻はす傍にわが短冊。
「ムヽコリャ先刻風に取られし拙者が腰折れ。スリャこの船へ」
「アイ、散って来たのが縁のはし。お慮もじながらこの扇に、なんなりとちょっと一筆」
「これはこれは結構なお扇子。ムヽ金地に朝顔。テ見事。及ばぬわれ等が拙筆に書き汚すは、ぶしつけながら」
とありあふ硯、上代やうの走り書き、墨の色香に引かさるゝ、心深雪は嬉しげに、押戴いて打眺め、
「ホンニお手といひ、唱歌といひ、可愛らしい朝顔の歌。一生離さぬ私が守り」
といひつゝその身も筆取上げ、用意の短冊取出し、妻を恋歌のもしほ草、墨つぎ早く書き認め、
「おはもじながら」
と差出せば、宮城も興じ手に取上げ、
「ムヽナニ『恋ひ慕ふ、心かよはす風もがな、人目隔つる君があたりへ』ムヽスリャ見る影もなき某を」
「アイ、ふと見初めしが思ひの種。不便と思うて給はれ」
とじっと寄添ひ抱きつき、すぐに障子を閉めからむ、松に這ふてふ藤かづら、いかなる夢や結ぶらん。
折からいきせき奴鹿内、かなたこなたをうろうろ眼。
「阿曽次郎様々々々々々。お、阿曽次郎様ではござりませぬか。国元より御急用」
と呼ばゝる声に阿曽次郎、はっと驚き深雪をばなだめすかしてとつかはと、船より岸へかけ上り
「ヤア汝は留守を預けし鹿内。あわただしくなにごとなるぞ」
「サレバサレバ、御本国より火急の御状」
と渡せば取って封押切り、読み下して大いに驚き、
「コリャコレ伯父了庵より『家督を受継ぎ鎌倉へ下り、殿へ御諌言いたしくれよ』との儀。ハヽア大恩ある伯父者人の頼み聞き捨てがたし。コリャ鹿内。その方は先へ立帰り、旅宿を片付け発足の用意せよ。急げいそげ」
に「ネイネイネイ。畏った」と達者もの、宙を飛んで引返す。
引続いて阿曽次郎、立帰らんと駈出すを
「なうこれ待って」
と深雪は船より駈上り、
「コレ申し阿曽次郎様。いひ残したこともあり。せめて今宵はこの船に」
と取付き歎けば
「ヲヽ尤も尤も。さりながら聞かるゝとおり火急の御用。最前扇に認めし、朝顔の唱歌をわれと思ひ、廻り逢ふ時節を待たれよ。さらば」
とばかり袖ふり切り、行かんとするをなほ取縋り、
「マアマア待って」
とどむる折しも、浅香船頭引連れて、川辺伝ひに戻り足、かくと見るより押隔て
「コレ申し深雪様。浅からぬあなたのお情。お礼の足らぬは道理なれど、人の見る前また重ねて、お礼申す時節もあらう、イヽヤ申し阿曽次郎様。主人の名は秋月弓之助必ず御出を待ちまする」
「ムヽ某宅は下川原。程遠からねば尋ね申さん。さらば」
「さらば」
と船と陸、別れの涙悲しさに、見返る深雪を無理やりに、船へ伴ふそのところへ、
「コリャやらぬは」と以前の悪者、あらはれ出でて、阿曽次郎が右と左にむしゃぶり付く。
「シヤ、面倒な」
と振りほどき、すぐにざんぶと水煙り。
船はもやひをとくとくと、漕出す船子妹と背の、遠ざかるこそ。