いやなことって多いのかもしれないね?
何もメリットがないとか、自分の思いや気持ちに対してどういう反応や接し方をされたりするのかで、メリットやデメリットを決めるのなら、いやなことばっかりだと思う。まあでも他の人はそうは見えないんだけどね。でも、他の人も場面が変わったりすれば、デメリットのが多くなったりしてくるのかな。

身近なことに嫌なことって溢れてそうだね?
そう感じるよ。身近にはすんごく溢れたりしている。一つの行動で自分の心などが嫌だという風に感じたりすることってのは、多いと思う。でもさ、それらって我慢しなきゃいけないんじゃないの?って思えたりしてくるんだけどね。それにさ、そのくらいのことは耐えて、大局的に見るべきだと感じてくるしね。

みんな辛いことは経験してるのかもね?
そんな風に思えてきたよ、経験というのは得てして見えてこないからさ。こいつは、人のデメリットというのもが見えてないと感じる。でもさ、行動のまでの部分に人によってデメリットみたいなものというのはたくさんあったりするのかもな、っていう風にも思ったりするような部分はあるなとも感じたりするよ。

嫌だなと思っても良いんじゃない?
いやとんでもないよ。嫌だなと思わせたりすることが相手にどれだけ傷つけたりするのか。でも嫌だなというのは明確な意思表示だとしても、わかってもらえてないだけで逆にストレスとかも感じたりするのだからこそ、言っても言わなくても、相手に与えたりする印象というのは同じなのかなと感じたりもするよ。

としたら様々なことをされてもおかしくないかもね。
そうだなって感じる。誰だって嫌という風に言われたりしたら嫌だと思う。いや自分は特別、そこで思い込みが強いような、そこしか道がないような感じとして感じたりする感じだったのだと思う。

昔の体験も似てるのかもね?
似てるというか、これと同じようなことの繰り返しなのかなと思う。もし、この流れで見ていくのなら、自分の心は嫌だを通り越して悲鳴というのをあげていたはず。でも、悲鳴をあげるような感じに変わったりしても、よくそれを見せなかったよなと感じるよ。

それを見ると強いに変わるのかな?
いや強いに変えたくはないな、自分は物事というものを結果から逆算してみていく。結果が今は引きこもりとか友人が居ないになっている。そこから見たとしたら、昔の自分というのは強さではなく、弱さとなる。人と関わったり、人と何かをしたりすることが強さだとするのであれば、それとは違う引きこもりのような形は弱さという感じになってもくるからね。

引きこもりや友人がいないことは弱さではないかもね?いや弱さだと思ってはしまうけどね。居ないとかしてないということは、何かから逃げ出したことや、失ったってことを意味してる。その逃げたとか失ったっていう部分だけに着目というのをしたりするのであれば、自分は弱いということにもなるでしょ?

誰しもが逃げたり失ったりすると思うよ。
そうかもしれないけど、そうなると、誰しもが弱さを持っているってことになるのかな。でもそうだとしたら、おかしいというか他の人も気に病んでいるはずじゃん。というか、その気に病んでいることに近いようなことというのが、何かしらの言葉などに溢れていたりしていてもおかしくないんじゃない?でも、自分にはそのようには感じたりというのはしなかったよ?

言葉って奥底が見えてこないのかもね?
そう言われるとそう思う、でも仕事とか義務とか立場とかそういうようなものからも、人の奥底というものや本質というものは見えたりというのはしたりもしてこないのだろうなとは感じるかな。でも、そしたら自分も同じような感じだと思うんだけどね。自分の奥底は誰かに気付かれたりというのをしなかった。何で何だろうね。他の人ならば、自分なんかとは違って気付くことのできそうなものに思えるけど。

見えない時ってあるのかもしれないね。
そう思うと、言いたいことは溢れてくるけれどね。だって、見えない時やことっていうのはあるのかもしれないけれど、自分はそういうようなところを置いておいて、どんな絡み手やどんな策を講じたりしても、わかってもらえたり気付くことをしてもらえるはずだという期待をし続けてきたしさ。

期待するって凄く辛いことだね。
そうだと思う。今思うと、自分の人生のほどで期待をしてきたけど、期待したことは叶うことが少なかったというか、その期待の通りに動いたりしてくれる人はいなかった。たとえそれが現実的なものでないとしても、期待通りには動いて欲しいよ、自分よりも不遇な状況にいるわけではないんだしさ。

みんな期待通りに人に動いてもらいたいのかもね?
それは嫌だな。だって、幸せを感じていたり、それほどまでの大きな挫折をしたりしていない人なら、自分みたいに期待なんてしなくて良いはず。なのにするということは、まるで自分の価値が下がってしまうような、自分のしてきた体験の価値や重みが下がってしまう気がする。みんなおなじようにしたりするのなら、特別感も生まれず、同情もしてもらえない。

特別でも良いんじゃない?
ダメに思えるけどさ、特別ってなんか他の人のされたりした体験などを置いといて、自分だけがそんなことをされて苦しくて、他の人はされてもないし、苦しくもないっていう見方をすることだし。それは、少し人に対しての配慮が欠けてるし、大人でもない子供の見方だという風には強く感じたりするよ。

みんな子供なんじゃないかな?
そう言われてみるとさ、人前にいる時や、何かを演じたりする時とかはやっぱり子供じゃないようにするけど。でも、そう言われてみても、自分の中でうまく子供じゃないという部分みたいなものをコントロールすることをしていきたいと感じる。それはすべて自分のためというよりは、人のため。でも本質的には、そうやって犠牲をして人のためになることで、否定や批判などをされずに。幸せと楽しさとかを享受したりしてもらえるというメリットがあるからだと思うし。

みんな嫌われたくはないのかもね。
でもそうやって人に批判されたり否定されたりをしないことで、幸せとか楽しさとかが作り出せたりするという風に思ったりっていうのをしたりするのであればね、密かに嫌われないようにしているというか。嫌われないような自分というのをどこかで密かに作り出したりっていうことをしたりしてるかもだよね。

みんな偽りの姿を作ってるのかもね?
そんな風に思えたりしてきた。でもその事実というのか自分に対して嫌な感覚というものを押し付けてくるような気もしてるよ。それにさ、偽りの姿をみんな演じているとするのなら、皆どこかに心の中に安らぐような場みたいなものというのがないことを示してる。そんな中で自分だけだと依存をしてきたり、甘えたりしてくるような人がいたりというのをしたとしたら、すごぶるうざいしムカついてくるだろうな。

みんな誰かから見ての嫌な奴なのかもね?
そう思うとそう思えてくるのかな。もし、みんな壁というか偽りの姿を作ったり、演じたりというのをしているとしたら。心の中では誰かのことを自分の中のシャドウとして扱い、嫌な奴として見なしたりしていたとしてもおかしくない。そう思うと、俺って嫌われたりしてるのかなとか。そうだとしたら、ショックだし生きてる意味もなくなりそうと感じるかも。

そう思うと関わってくれる人って不思議だね?
不思議というか奇妙に思えてくる。壁や偽りの姿というものが人にはそれぞれあったりするというのであれば、人と人というのは関係性というのを保つことができないようにと感じる。それにさその壁などがあるということが、相手に対して不遜な態度などを取ったりしてしまったとしたら、もう取り返しのつかないような、どうすることもできないような感じとかになってしまう可能性もあるのかなと感じる。

人はもう自分のことを見てくれてないかもね。
そうかもしれない、もしかしたらそれは事実じゃないのかもしれない。でも偽りの姿やまた壁みたいなものを自分のために乗り越えることをしてまで、以後関わり合いになろうとしてくる人は、果たして存在してくれるのかな、大抵、相手のことを決めつけたり相手のことを否定なり批判なりしたりして、こちらが寂しいとか悲しいとか感じたりするような現実だとかになったりするというだけだったりすると思うよ。

虚しいし寂しいね?
虚しいよ。今までしてきたことが、すべてパーになる。楽しくもなくなる。依存が悪いということなのか。いやでも、こういう感情を感じるということは、どこかで依存を強くしてたってことなのかな。またそれで隠していた無力感などを強く感じるようになったみたいなさ。なんかそう思うと、やっぱり悲しいし、寂しいかな。ああこんな感じで終わってしまうんだなと。

こうやって結果的に辛くなるんだね?
こうやってみるとね、隠していて。隠し通せるようなものだという風に思ったりっていうのをしたりしていたはずなのにね。結果的に、それよりも酷い結果になってしまったよ、思えば自分の対人関係のパターンや自分が味わうような感情というのはいつも同じようなものだったりした気もしてる。いつもこんな感じになるんだなぁとか。距離感を感じたりするのだなぁと、悲しくなったりしてしまった気もするよ。

他の人も同じなのかもね、問題は中々気づけないね。
この一連の流れを見ると、気付けないよ。だって寂しいし、だって悲しいし。その悲しさや寂しさに太刀打ちすることなんてできるわけがないと感じてくる。一言で言えば、別に騙しても嘘ついても良いじゃん。それでも自分の隠れやにさせてくれても良いじゃないかよと、思ったりもしてしまう気もするしさ。

相手の気分を害することを言いたくなるね?
なんか、相手の気を乱すような、自分に惹きつけるかのような、そんな一言というのは寂しくて悲しいからこそ言いたくなってしまう気がしてる。なんか置いてかないでとか、言ってて情けなくもなったりはしてくるけれどさ、そんなような一言っていうのは言いたくなってくるなとも感じたりはする。

相手の気分を害したり傷つけても良いんじゃないかな?良いわけないと思う。ある意味で自分が学んでした処世術のようなものというのは、傷つけずに害さないこと。多分、その目的というのは自分の恐れている寂しいようは悲しいような現実というものにならないため、というのがあるのだろうけど。としても、その目的だとしてもたとえ惨めのようなものだとしても、そのような選択というのは取りたくなってくるよ。

寂しくなれば誰でもしそうだけどね?
言われてみると誰でもしそうだよね。でも誰でもしそうなことや、してしまうことというのは、必ずしも相手がわかってくれたり、理解してくれたりするというわけではない。その事実というものが、自分に寂しさや悲しさを与えたりしてくる。としたら、それはしないようにしたり。あくまで最終的な選択として存在しているという感じだったりはするのだと思うよ。