迷惑をかけたくないが主にある。次に、人のことを不快にさせたくないみたいな思いがある。人に対して頼ってはいけないみたいな、人を頼りにしてはいけないような感じがあったりもしている。他の人は、人を頼らないだろうと。大抵一人で解決をしたりするはずだし、誰かを頼らない。そういう人がかっこいいと言われたりするのだろうし、孤高であるというか、何でも乗り越えていけるような。何でも超えて行ったり、何でも解決していったりできたりするのである。

具体的には、たとえ初めてのことであれ始めてのような素振りをを見せたりはしない。初めてとは違い、熟練者のようなことを語っていたり、熟練者のようなプレーをどんなことでもしたりする。それにどんな窮地に達することをしたとしても、人のことを頼ったりするようなことはない。どんな事態でも、ひとりでに考え、誰にも見せたりをせずにそういう人達というのは解決をしたりする感じになる。隠れて努力していてかっこいみたいな感じになるのかもしれない。

しかしよくよく考えたりをしてみると、初めてというのは恥ずかしいとか以前に、知らないのであれば始めてのような処女のような振る舞いになったとしてもおかしくはないはず。知らないとかしたことないのに関わらず、格好だけを一丁前にしたりしている方のが、後々に無知というのがバレたりするだけである。

また一人で考えるというのは、知らないことを知る努力をまずするということ。また、一人でやるので時間というのを割くことにもなる。それに状況の把握みたいなことをできたりはしないはず。一人で考えるという形のばずなので、それは一人の問題として抱え込んだりして、今自分がどういう状況にいるのか、みたいな対比というのができなかったりもするはず。

それに、情報収集を徹底的に行い。もし様々な事態に備えるに当たって、情報収集が必要なのであれば、一人でまず時間をたくさんかけて情報を収集しなければならない。かつ、その情報を正確にイメージの中で把握しつつ。より細かいところまでも、自分の中で把握をしていく必要というのがある。更に把握したりした上で自分の中で整理というのをしたりして、それを実際の場面に即した形で頭の中で配置した上で、してはいけないことや。こうなったらこうなってしまうということを一人で把握していく必要がある。

簡単に言えば、作戦を立てるということであるが、一人でやるときは失敗となるものが増えるためにリスクも備えるところも多くなる。しかし、それらを自分一人で把握する必要がある。それを何にしてもやったり、実行したりするのは不可能に近い。そもそもで、大人でもそんなことを一人で実行することは叶わない。そんなことを全て実行するというのなら、身がもたない。

一人でやらないのは楽をしているとか、頑張りが足りないと言われがちだが、そもそもで一人で全てをやることなどそもそもで無理なのだからこそ、人に頼ることは楽をしているわけではない。合理的であるし、そちらの方がスムーズだからという感じかも。

次。迷惑をかけてはいけないし、頼ってばっかりではいけない。細かいところで人に迷惑をかけてしまったり、人の心の機敏に疎かったりする人間が、大きなとこでミスをせずに、人に対して迷惑をかけずに、みたいなことを実行できたりするわけがない。

他の人は、細かいところに自然と気を使うことができてるし、気を遣えてなかったりしたとしたら自然に謝れたりすることもできる。また、そうして様々なことなどにその力を生かすことができている。人の心に精通したりしているので、とにかく人に対して優しかったり教えたりするのも上手いし。とかく、人に対して平等であったり理解力もある。そういう人間とかが好かれたり、好まれたりというのをするはずである。

それに比べて、自分は細かいところでよく怒ったりしてしまう。そこで心を乱されたりしてしまうので、そういう人や他の人を教えたりすることには適さない。適さないし、怒ってしまうだけじゃなく、人の期待にさえかなかったりするような人間だし、平等さとは異なるような姿や振る舞いみたいなものをしたりしてしまうので、人に嫌われたり、人の期待に沿うことができたりをしないような人間であるはず。

しかしよくよく考えたりをしてみると、細かいところというのはたとえ一人の心であるとしても、知らなければ気遣うことはできない。そういう気持ちを持っているんだということを知らされたり、他にも自分がそういう気持ちになる、という感じにもなったりはしないとわからないことである。人の気持ちは見とり表みたいなものがあったりするわけではないので、知らないのならば、想像で理解していく必要がある。

しかし人の気持ちというのは、どこに置いてでも問題になることだと思う。ということは、そんな想像の範囲で理解していくしかできないものを、自分一人の力で理解というのをしていかなければならないことである、という感じだったりもするはずである。すると、理解するまで外に出れない。

しかし、そのような理解というものが、経験などによりしか培えたりというのをできないのであれば、一生手にしたりすることができないのである。つまり、人の気持ちというのはそもそものところとして知ったりしている人しか理解というのができたりはしないはずだし、わかることというのはないはずである。

ということは、平等性というのは知って始めて生まれたりするようなものであるはずだが、もし知らないのに生まれたりするのであれば、それは知らない上で生まれた、平等性というよりは、個性を殺したりして人に合わせたりする力であるはず。

次。人に迷惑をかけることが怖い。たとえ、そんなような人として不可能なことであったりしても、責められたり罵られたりすることが怖く感じる。そんな理不尽のような目にあったりする事が怖く感じる。

他の人はそういうような理不尽なことをしてきたり、理不尽な目に合わせてくるような人とは関わらないようにしたりもしている。そうやって、人に対する目というのは他の人は養われたりしていて、自分がひどく責められないようにコントロールをしたりすることができている。そういう人は得てして頭が良くて、勘も良くて頭も明晰で、戦略的にも物事を考えられたりするはずなので、そんなに苦労したりしないし。色々な人に好かれたり、幸せを掴めるはずである。

対して自分は、明晰に物事が考えられない。相手がどんな人であるとか、どんなことをしたりしてきそうというのを置いといて、目先の感情や利益や欲求に流されたりする。挙げ句の果てに、周りの目を気にしたりして、その先のことを考えた選択ができなかったりするので、自分が責められたりとか、自分が苦しんだり辛くなったりしてしまうような選択を選んでしまう。

しかし、よく考えてみると、人のことを察知して読むということは、その人がどういう人なのか知っていなければならない。知っていて、かつその人との間で起きてくるであろう欲望や感情というのを自分の中で理解しておく必要もある。しかし、得てして感情や欲望というのは理解する機会に恵まれないはず。

よっぽど、小さいな頃に親にはの欲求や感情の扱い方のレクチャーや、共感などをしてもらえなければ、自分で自由に使うこともできないはず。なら、その辺りの部分は子供のままだあるはずなので、流されたりをしたとしてもおかしくはないはず。

それに、そもそもで人と仲良くしたいと思ったり人の目を気にしたりするのも当然。相当に自分が認められているとか、自分はそれで良いんだと。思あたりをしないのであれば、そうして目先の利益みたいなものに飛びついたりすることは多くなる。知るのと同じで、それでも良いとか。そうであっても良いみたいな方向に持っていけてないのであれば、それとは違う方向を意識したりしてもおかしくない。

そうして先が読めなかったり、その人がどんな人なのかわかるはずもない。その人が攻めてくるところは、その人の承認できてないような部分であったりするはずだが、自分の承認の経験がないのであれば、承認や感情に対する理解とは程遠くなるはず。