【クールス】舘ひろし・岩城滉一の出会い※玉川雅巳の死とは!? | 誰よりも速いニュースを発信するパーソナルメディア

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こんにちは・・・

今回は舘ひろしさん

岩城滉一さんの出会いから

玉川正巳さんの死により

仲を取り戻した話まで

大きな流れをお伝えします。

それではどうぞ



■二人が在籍していたのが

不良バイクチーム

「クールス」



1974年にお互い違う

それぞれのバイク

チームにいた20代前半の

二人が・・・

ある日、都内の飲食店で

出会いました。

一触即発の睨み合いになったが

舘が岩城に対して話かけたのが

きっかけになったのだった。

「あのバイクきみたちの?」

以来二人は意気投合し、

その時にバイクの免許を

持っていなかった舘は、

岩城のバイクの後ろに乗って

教習所に送ってもらうほどの

仲にまでなったのでした。

「少数精鋭で
面白いチームを作ろう」と

原宿を拠点とする

クールスが結成されるのです。



チームのリーダーは舘が務め

「このチームはリーダーの
独裁により運営される」という

血判状にメンバー全員が

ナイフで右手中指に

傷をいれて血判を押した。

黒い革ジャンにリーゼント、

ハーレーダビットソンや

黒のカスタムバイクで

走り回るという姿は

充人の度肝を抜いて

脚光を浴びたのでした。

彼らが集まるとこには

いつもギャラリーができ

彼らが走れば

他のバイクチームも

クールスが走ると集まってきて

一緒に走るほど

一目置かれていたそうです。



■方向性の違いから不
仲になる二人 
なにがあったのか?


クールスはバンド活動も

やりながらバイクチームでも

あった・・・

その中でも岩城滉一は

凄い人気を誇り

ついにはからの姿を

雑誌が取材に来るほど

その人気は突出していた。

そして、ついには東映の

社長から直接お呼びがかかり

映画デビューすることに。

そのような経緯から

岩城はバンドには参加せずに

俳優の道に進むのですが・・・


バンド活動をやっていた

リーダーの舘は

「バンドをやりながら
映画に出たらメンバーが
まとまらない」と

岩城の誘いを断ってしまう。

岩城は東映に対して

「クールスの他の
メンバーも映画に
出させてほしい」と

東映に掛け合っていたから、

映画出演を断る舘に対して

「なんだよ」と憤慨。

気持ちのズレを

感じてしまったそうです。

その後、岩城は俳優の道に、

舘も1977年に脱退して

俳優の道に進み

後に石原プロモーションに

在籍することになります。

二人の不仲の理由は

クールスの活動と俳優の

道の分かれ目から生まれた

溝だったんですね。


それから長い歳月が流れる

その間には二人は共演をしたり

していたのですが・・・

気持ちはお互い離れていた?

と推測されます。



■42年ぶりの和解


2017年12月、元メンバーで

舘のマネージャーも務めた

玉川雅巳さんが亡くなる。

秋に心筋梗塞で倒れ、

病院のベッドで危篤に

なったそうです。

昏睡状態の中、

クールスのメンバーが

お見舞いに行くと

舘が耳元で「マチャミ」と

声をかけると両腕を

あげてバイクにのるような

姿を見せたそうです。

スケジュールの都合で

その時に行けなかった

岩城は、前にお見舞いに

行っていたそうです。

亡くなったのは12月14日、

42年前に血判を押して

クールスを結成したのが

12月13日。

奇しくもその翌日に

亡くなったそうです。

12月18、19日に

執りなく行われた葬儀では、

舘、岩城ともに参列し、

二人とも男泣きし、

肩を抱き合って

悲しんだという。

42年の時を経て親友の

死によって二人の仲にあった

氷が解けたということです。


いかがでしたか?

クールスが結成されたのも

舘さんと岩城さんがいたから

成し遂げられたこと。

血判状に血印を押す時にも

岩城さんが率先して押した。

岩城さんの統率力が

他のメンバーの行動を

助長したのです。

小生の意見ですが

COOLSとしてバンドで

デビューしたての時

何かと忙しくなった時期。

岩城さんと舘さんとの

会話が薄かったのかな?

そう感じます。

というか・・・

推測します。

グループのためだと思って

やっていたことが・・・

お互いがお互いを思うあまり

空回りしてしまったのかな?

あなたはどう思いますか?