わからない語は使わない

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相手に伝えるというのは、難しい作業です。

学校でも、わからない説明を聞いて、そしてそのうち疎遠に

なってやらなくなった経験があります。

勉強ができる人は、守備範囲が広く、かなりのことが理解

できるでしょう。

しかし、そういう人ばかり育てても、世の中全体がよくなる

方向にいく、わけではないでしょう。

 

今日から、数日休みがとれたので、スポーツジムにNHKテキスト

100分で名著の『法華経』(講師:植木雅俊さん)をお供にしました。

植木さんは、冊子の冒頭、外国ではお経を自国の言葉にしたから誰でも

理解することができるが、日本では漢訳の音読みで広めたから、わからない人

が多い、と書いています。エリートだけがわかる仏教になってしまったわけです。

そして、仏教は、釈迦が言った、行ったことを思いだしてまとめた「お経」である

原始仏典と、そのずっと後に、その時代の人の希望を「お経」としてまとめた

ものがあり、法華経も、釈迦が死んで500年ほどたった時に作られたものだ

そうです。

仏教とは、それらの総称であるそうです。

 

さて、その「仏教」ですが、仏さまという超人のありがたい教えみたいな理解が

ありませんか?

 

これについて、このテキストの90ページから91ページにこう書かれています。

少し長いですが、そのまま引用します。

 

 中村元先生は「西洋の絶対者(=神)は人間から断絶しているが、仏教において絶対者

(=仏)は人間の内に存し、人間そのものである」と言われました。これが仏教なのです。

個々の人間から一歩も離れることはない。仏教は、人間を原点に見すえて、人間を

"真の自己"(人(じん)と法に目覚めさせる人間主義なのです。

 「人」と「法」、言い換えれば、人間のあり方と思想の関係性です。「人」は人格と肉体

を備えた存在です。「法」は普遍的真理、法則です。万有引力が、ニュートンが発見す

る前から存在していたように、「法」は誰かの発明品や専有物ではなく、誰にでも開かれて

いるものです。しかし、その「法」は人間の生き方に活かされて初めて価値を生じます。

 原始仏典「サンユッタ・ニカーヤ」に、「私(釈尊=人)を見るものは法を見る。法を見る

ものは私を見る」という言葉があります。つまり、釈尊の生き方の中に「法」が具現され

ている。その「法」を知りたければ釈尊の生き方を見なさいということです。そして、その

「法」とは釈尊が発明したものでもなく専有物でもない。誰にでも開かれている。釈尊

が覚った「法」は経典として残った。その経典を読むことで、私たちも「法」をわが身に

体現することができる。その「法」と「真実の自己」に目覚めることが、仏教の目指した

ことであり、釈尊が遺言していたのもそのことでした。

 

普遍的真理、そして自分のありかた、というのがポイントですね。

自分のありかたをどのようにするか、というのが八正道というものだと言われています。

八正道の中に「正定」というのがあり、これを禅という人もあり、瞑想という人のありますが

三昧行と言われています。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi3.html

 

まぁ、インドで生まれた仏教は、見えないものを信じろみたいな神秘なものでも

迷信を含むものではなく極めて科学的な感じがしますね。

 

中国から日本へ経由する間に、土俗信仰やらいろいろが混じって、今の日本仏教

の状態になっていることを理解する必要があります。

 

大事なのは、釈尊は発見者なのであって、発明者でも原理の中心にいる存在でも

ない、ということです。神格化は、釈迦が死んですぐ始まったようです。

そして、釈尊とは、発見者の釈迦を尊敬するという意味であります。

 

あっ、それから、娑婆という、この世に「法華経」を広めに行く者を

募った時に、多くの者は、娑婆の人は傲慢で悪意があり、生まれつき心が歪んで

いて困難だら嫌だといいます。その中で「やります」といった者に、釈迦はこう言って

申し出を拒絶します。

「良家の息子たちよ、あなたたちのその仕事が何の役に立とうか」と。

 

そのあとも、娑婆において法華経を広めるもの=地湧の菩薩が現れる有名な

場面になっていくのです。

 

良家の息子たちとは、なにをさすのでしょうか?

 

ヒントは、「如蓮華水」という語と地湧の菩薩のリーダー四人、上行、無辺行、浄行、

安立行という名前にあるような気がします。