ヴェーダとは、神とは、人とは、宇宙とは、サイババとは何なのか?・・・的な話(*^▽^*)/ | 『真理への翼』(サイババの導きと叡智)
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『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

これは『哲学の透視図』を改題したもので、サイババとの体験談、教えを通して「人間とは何なのか?」「死をゴールとした人生に何の意味があるのか?」「真理とは何なのか?」といったものの答えを探究していくものです。

2006年8月10日午前4時半、サイババ様がご講話を終えて着座されたのを合図に、全インドから呼び集められていたヴェーダに精通した132人のルトウィック(ヒンドゥの僧侶)による、11日間にわたるアティ・ルッドラ大供犠祭が始められました。  

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《アティ・ルッドラ大供犠祭》とは何なのかということを一言で説明することはできませんが、もし言えることがあるとすれば、その根幹を支えているものは全僧侶による、幾千年も前から師から弟子へと完全なる口伝によって、原初のままに受け継がれてきたヴェーダの絶えることなき詠唱だということです。

 

以下は8月9日アティ・ルッドラ大供犠祭開会式におけるサイババ様ご講話からの抜粋です。

                      

『神は、単に礼拝をささげたり、ヴラタ(苦行)を行ったり、ヤグニャといった儀式を実施することによって顕現するのではありません。神のビジョンは、ハートの清らかさと気高い人格を育むことによってのみ得ることができるのです。

世界にあるすべてのものは、宇宙の創造者であり維持者であり破壊者である、全能にして遍在の神によって創造されています。

この宇宙のすべてのものは神の贈りものです。神はすべてのものに内在しています。

                      (中略)

このため神は、 サルヴァタハ パニパーダム タット サルヴァトクシ シロームカム、サルヴァタハ シュルティマローケ サ ルヴァマヴルッティヤ ティシュタティ(その手、足、目、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している) と描写 されています。

身体は水の泡のようなものです。

心は「思考の束」です。

ですから、人は身体と心に全信頼を寄せて人生を送るべきではありません。

                       (中略)

人間性は神性と関連しており、純粋で神聖です。

神が時代から時代に化身するのは、人に内在するそのような神聖な特質を育むために他なりません。 

正義が衰えるとき、神はその宣言どおりに、ダルマを維持するために化身します。

 

ヤダ ヤダ ヒ ダルマッシャ グラニール バヴァティ バーラタ アビュッタナマダルマッシャ タダートマナム スルジャミャハム(ダルマが衰えアダルマが増すとき、私はダルマを確立するために化身する)

 

今日の世界では、正義が衰え、真理が忘れられています。全世界は不正行為と無秩序と邪悪な振る舞いに満ちています。このような混沌とした状態に対しては、神への信仰だけが永続的な改善策です。

真理のみが拠り所です。

なぜなら真理は神だからです。

愛は神です。愛に生きなさい。

愛がなくては人は生きることができません。ですから、人は神を愛し、神から愛という贈りものを受け取らなくてはなりません。愛によってのみ神に到達することができます。

                          (中略)

ヴェーダを規則的に学びヴェーダの指示を実践するなら、人間はあらゆる種類の富を授かります。

人の生活と運命を支配する基本的な原理がヴェーダには含まれています。

ヴェーダは全人類の幸福のための神からの贈りものです。

ヴェーダは宗教や身分や国籍をもとに区別 をするようなことはありません。

                          (中略)

ヴェーダはあらゆる種類の悲しみを取り除きます。

今執り行われているヤグニャは、プトラ カーメーシュティ ヤーガや、アシュワメーダ ヤーガといった他の儀式とは異なります。このヤグニャは全人類の幸福のために行われています。

                           (中略)

ヴェーダは軽視されてはなりません。

全創造の神秘がヴェーダの中に含まれています。

ヴェーダは人生の目的と目標を定めています。

創造、維持、破壊に関するすべての事柄がヴェーダの中に含まれています。

                           (中略)

ヴェーダは非常に神聖です。

特に、アティ ルッドラの箇所はとても重要なところです。ルッドラムは、リグ ヴェーダ、ヤジュル ヴェーダ、サーマ ヴェーダ、アタルヴァナ ヴェーダといったすべてのヴェーダの真髄です。

                           (中略)

神聖な生活は神の恩寵によってのみ得られるのであり、他のいかなる手段によっても得られません。

サルヴァーダ サルヴァ カレーシュ サルヴァターラ ハリ チンタナム(どこでも、どんなときにも、どんな状況にあっても、神を憶念せよ) の格言どおり、人はつねに神を黙想すべきです。

それが真のバクティ(神への信愛・信仰)です。

 

(ラーマ、クリシュナ、イエス、アッラー等)どのような名前で呼ぼうとも、神は一つです。

神に付けられたさまざまな名前があります。

エーカム サット ヴィップラー バフダー ヴァダンティ(真理は一つ、しかし、賢者はそれをさまざまな名前で呼ぶ)と言われています。

ですから、私たちは決して神に関して違いを設けるべきではありません。

もし神の神秘(本質)について知りたいと望むなら、「広い心」を養わなくてはなりません。

皆さんは神を、自分の好きなどの名前で黙想してもよいのです。

それはまったく間違いではありません。けれども、一つの名前と姿を崇める一方で、神に付けられた他の名前や姿を悪く言うことは間違っています。中には《ナーラーヤナ》の名前は好きでも、《シヴァ》は好きではないという人々がいます。

これは間違っています。

同じ神がイーシュワラと「ーラーヤナ」いう異なる名前で崇拝されているのです。

唯一なる神が多くの名前と姿で崇められているのです。

この一体性を理解する人は、心の平安を得るでしょう。

神のある姿を愛して別 の姿を嫌うというのはよくありません。 そのようなことをするなら、願いをかなえることはできないでしょう。

若者だけでなく、(老いも若きも)すべての人がこの原理を認識し、この原理に従うべきです。

実際、世界は神のみによって守られています。神の御名は原子爆弾よりも強力です。

神の御名は善を守護し、悪を懲らしめます。

ですから、皆さんが神を崇め続けるなら、間違いなく世界は守られるでしょう。

今回のヤグニャは世界の幸福のために執り行われています。

このヤグニャにはとても重要な面 があります。アティ ルッドラ マハー ヤグニャは人間の内にある神聖な性質を守り育み、悪魔的な性質をはねつけ減らします。

                          (中略))

リーダーが善良で有能であるなら、全世界がスムーズに動きます。不幸なことに、今日、世界には適切なリーダーが不足しているため、現在のような悲惨な状況に陥っています。

教育、政治、宗教、霊性をはじめとするすべての分野においてよいリーダーがいなくてはなりません。

しかし、今日ではどの分野においても、めったによいリーダーは見られません。

どこを見ても、あらゆる人間の努力がお金に対する熱狂で汚染されています。

すべてがビジネスになっています。

                          (中略)

神なる自己(真我)の化身である皆さん!
皆さんはただの人間ではありません。

皆さんはまさしく「神なる自己の化身」です。

個々人は身分を証明する目的で特定の名前を授けられています。

しかし、皆さんは全員「神なる自己の化身」であり、単なる人間ではありません。

私は皆さんがた全員が、幸せで平安に満ち、満足のある至福に満ちた生活を送ることを望んでいます。

もし皆さんが真に信愛していないのであれば、そのような生活を送ることはできません。

ですから、 信愛を育みなさい! 

皆さんはディープ オーシャン(深海)ではなく、ディヴォーション(信愛)に没入すべきです。

皆さんを神へと導くのは、そのような信愛のみです。』

 

                

8月10日の御講話より抜粋。

『人間として生まれる目的は解脱を得ることです。

人生は食べたり飲んだりすることで無駄遣いするためにあるのではないのです。

人は自分の本性に気づくための努力をすべきです。

皆さんは誰に出くわしても「あなたはどなたですか?」と問い続けて時間を無駄にしています。

一方、皆さんは決して 「私は誰か?」 と問うことはありません。

ひとたび自分自身についての真理がわかれば、すべての人の本性がわかるでしょう。

 すから、他人のことを知ろうとして時間を無駄にすべきではありません。

今の人は、物理的な利益と知力の向上をを得るためには奮闘しますが真我の悟りを得るために努力する人は誰もいません。

                            (中略)

良いものだけを受け入れなさい。

神聖なものをすべて吸収して、永遠の価値の上に人生を築きなさい。

神の教えは甘さに満ちています。

神の言葉は甘露のようなものです。

人は決して神の教えを無視してはいけません。

皆さんは体さえ捨てる日が来るかもしれませんが、神の教えを捨ててはいけません。

肉体はいつの日か朽ち果てるものです。

体がいつ死を迎えるかは誰も知りません。

体を過度に重視してはいけません。

人生はただ自分の体を維持するためにあるのではありません。』

                 

8月12日の御講話より抜粋。

『死はいつの日か必ずやってきます。

ですから、もっともっと多くの時間を神の黙想に費やすようにしなさい。

パラマートマ(神・至高我)への愛を育てれば、プラクリティ(自然・現象界)の中で幸福を感じることができます。

義務は神です。 仕事は礼拝です。人生においてこの一対の行動規範に従いなさい。

(義務や仕事をおろそかにしてはなりませんが、かといって)過度の責任という重荷を背負いこんではなり ません。神は一人一人の責任を背負うためにいるのです。

皆さんの面倒を見るために神がいるのに、心配する必要がどこになりますか?

この真理に対する理解が単なる理論に基づいたものであるせいで私たちは心配しているのです。

それではいけません。

ひとたび神にすべてを捧げれば、心配はなくなるでしょう。幸福を感じることができるのは、心配がない時だけです。

どれだけヤグニャやヤーガやを行ったとしても、どれだけ霊性修行をしたとしても、それらの根底にある意味を理解していなければすべて無駄です。

この世の何を忘れてもかまいませんが、決して神を忘れてはなりません。

心の焦点を常に神に合わせていなさい。

これが皆さんへの今日の私のメッセージです。』

 

8月19日の御講話より抜粋

『ここにいるブラフミンの皆さんは、シャーストラ(霊的戒め)に従って人生を送り、シャーストラに完全な信頼を置いています。

皆さんはこのようなルットウィックを、どこかよそで見つけることができますか?

実に、皆さんが唱えたマントラはどれも、きわて明瞭で、イントネーションは完璧でした。ルットウィックらがそのようにマントラを唱えるのを聞くことができるのは、幸運なことです。

                     (中略)

ルットウィックの皆さん!皆さんはこの十日間に払った努力から多くの利益を引き出すでしょう。

今はそれを実感できないかもしれません。地元に戻って、静かにそれを黙想してごらんなさい。必ずや至福を体験することでしょう。

                      (中略)

ヤグニャとは何ですか?

 ヤグニャは物質的ですか、それとも霊的ですか? 

これは物質的あるいは現世的なヤグニャではなく、霊的なヤグニャです。

                      (中略)

このヤグニャは、ほんの一握りの人のためになされたのではなく、世界全体のためになされました。

ここで唱えられたマントラは、空中で混ざり合い、全宇宙に広がりました。

これらの神聖な音は、私たちの心(フルダヤ)に入り、心を清めました。

ですから、このヤグニャで唱えられたマントラはこの場所だけに限定されていると考えてはなりません。

マントラは全世界に広がりました。このヤグニャはインドのためだけになされたのではなく、世界のすべての国のためになされたのです。

                       (中略)

ヴェーダのマントラは、人類全体のためのものです。

西洋人でさえも、ヴェーダのメッセージをすべての国の人々に広めるために、今ヴェーダの原典を出版しています。

西洋人にとって、ヴェーダのマントラを唱えることは確かに難しいことです。なぜなら、西洋人にはさまざまな音節を発音するのが困難だからです。

マントラの中には発音のややこしいものもあります。しかし、真剣な努力によって、西洋人はそうしたマントラを正しく唱えることを学んでいます。固い決意さえもっていれば、人は何でも成し遂げることができるのです。

                       (中略)

このヤグニャは全世界の幸福のために行われます。

もし皆さんがこのヤグニャを行い続けるなら、じきに全世界の人が一つになるでしょう。』

                 

 

「マントラとは何なのか?」という問いに対するサイババ様の御言葉。

『マントラとはそれを瞑想すれば救ってくれるもという意味です。

全てのマントラの中でプラナヴァ(オーム)は最高で最良のものです。

プラナヴァはまさに、すべてのマントラの頭部であり王冠です。』

(ブログ主注釈・そのためすべてのマントラはまずオームというマントラを唱えた後に続けられます。もしオームを唱えずに唱えられたマントラがあったとするなら、そのマントラはマントラとしての力を持つ、発現することはないとサイババ様は別の御講話の中で仰っています。なお、オームは宇宙が誕生した時(科学的な表現を借りればビッグバンの時)に鳴り響いた音ともいわれていて、これはキリスト教においては聖書の「初めに言葉ありき」の言葉であり、一説にはアーメンとして伝承されているものであるとも言われていたりするものです)

 

ヴェーダはマントラの集合体であり、マントラはヴェーダの一部で。

その「ヴェーダとは何なのか?」という質問に対するサイババ様の御言葉は以下のようなものです。

「ヴェーダは人間由来のものではないものです。

ヴェーダは神より出でて、神の声を聴き分けることのできた聖賢たちに「聴かれ」ました。

聖賢たちはその言葉を弟子に伝え、その弟子はそのまた弟子へと伝承していきました」

 

アティルッドラ大供犠祭期間中に、サイババ様より講演者として選ばれた帰依者の一人は、上記の件に関係する以下のようなエピソードを話しています。

「先述の夏期講習において、サイババ様はヴェーダとウパニシャッドを余すことなく引用されただけでなく、サーナチャルヤ、ミューラー、マクドナルド、ウェーバー、キースといった東西の注釈も引用なさいました。これを見たゴーカク博士は驚愕し、いつスワミがこうした知識を習得したのか知りたがりました。博士はスワミのもとに行き、「(これらのことについて)いつ勉強なさったのですか?」と尋ねました。

それに対してスワミは「私に読書という悪い習慣はありません」と仰いました。

そして当惑している博士に向かってこう続けられました。

「ヴェーダ発祥の神秘はここにあります。賢者や預言者はマントラを霊視できたといいますが、その神秘はまさにここにあるのです。宇宙の全知識は人間の脳に格納されています。脳の中枢は無数に存在します。その中枢の一つ一つが知識の支流なのです。もしマインドと感官を制御して、どれか一つの中枢に焦点を合わせることができれば、その支流に流れるすべての知識はその人に啓示されるのです。これが、賢者や預言者にヴェーダが啓示された方法です」

(ブログ主注釈・霊性のゴールに到達した人類の最高峰の存在はサンスクリットではリシと呼ばれ、日本語への翻訳では通常、聖賢や聖者とされていますが、サイババ様によればリシとは、「マントラを聴いた者」という意味だそうです。太古からリシによって聞かれたマントラの総体がヴェーダであり、したがってヴェーダには無数の数のマントラと、それを聴いたリシが存在していて、現代に受け継がれて残っているのはそのうちの僅か2~3パーセントだということです。ちなみに、カリユガと呼ばれる現代において、最も重要なマントラはガヤトリーマントラで、サイババ様は「ガヤトリーマントラを定期的に唱えるならば、ヴェーダを唱えることによって得られるすべての報いを手に入れることができます」「ガヤトリーマントラは有益なあらゆるものを授けます。ガヤトリーマントラが唱えられると、様々な力がその人の内側から浮上してきます」と仰っていいます。

ガヤトリーマントラの音声テキスト👉 https://sathyasai.or.jp/gayatrimm/sound/gy.mp3

この後にシャンティシャンティシャンティヒと続けて終わります。

そのマントラのテキストはこれです。

                👇

https://shanti-phula.net/assets/resources/gayatri-mantra/shanti.mp3

 

ガヤトリーマントラは誰がいつどこで唱えてもいいマントラですが、最も重要な価値を持つマントラであるため、軽々しく扱ってはならないというただ一つの戒めがありますので、その点だけは心に留め置いてください。

「ガヤトリーマントラは正しく唱えないと害をもたらすと聞いたことがあるのですが、本当ですか?」という信者の質問に対してサイババ様は以下のように答えておられます。

「そうです。それは唱える人を闇で包むという逆影響を及ぼします。けれども(正しく唱えられなかったとしても神への)愛を持って唱えるならば、神はそれを受け入れます」

このマントラを人類にもたらしたヴィシュワーミトラーという太古のリシは、リシの中でも最高位のブラフマリシになる前の段階で、本物の宇宙とうり二つの宇宙を作り出して現象界や天界を混乱に陥れるという過ちを犯したことが知られています。この時の宇宙はヴィシュワミトラのマントラと、ヴィシュワミトラが招集したルットウィックによるヤグニャ(供犠)によって作り出されたといわれています。この宇宙は物理的には本物の宇宙をコピーしていましたが、天界のデーヴァ(神々・聖なる存在)の承認を得られず無視されたため、短時間で崩壊したといわれています。

そうした異次元の力を持つものがリシであり、そうしたリシたちが祈りをささげ、究極のよりどころとしている名も姿も持たないこの宇宙の創造神が彼らの祈りに答えて化身したものがアヴァターであり、現代で言えばサイババ様だということです。

 

サイババ様の化身には、ヴェーダとバラドヴァージャというリシが深くかかわっているといわれています。

太古に生きていたバラドヴァージャは、ヴェーダに魅了されて熱心に学びましたが、どれほど熱心に学んでも寿命が尽きるまでに学び終えることはできませんでした。

そのため、バラドヴァージャは彼が礼拝している主神にヴェーダを学ぶため100年の延命を願い出ます。その願いはかなえられますが、そうして与えられた100年を使ってもヴェーダを学びつくすことはできませんでした。そこでさらにもう100年の延命を願い出ます。その願いも叶えられますが、そうして得た人生でもヴェーダを学び終えることはできなかったため、さらに100年の延命を願い出ます。しかしそれに対して、彼が延命を祈った主神は「そうした延命によってヴェーダを学びつくそうとする試みは無意味である。なぜなら、ヴェーダは寄せては返す波のように無限であり、お前がこの300年で学んだヴェーダは、あの山の一掴みの砂にすぎない。それよりも、シヴァ神のダルシャンに預かり祝福を受けることのほうが良いのだ。そうすれば、ヴェーダーの果実はすべてそなたのものとなるだろう」と諭し、シヴァ神に会いに行くことを助言します。ヴァラドワージャは、その言葉に従いカイラーサ山にシヴァ神を訪ねますが、シヴァ神は妻のシャクティ(宇宙エネルギ-が神格化したもの)と共に宇宙を維持運営するための踊りに没頭していて彼に気づきませんでした。そのためヴァラドワージャは三日間極寒のカイラーサで待ち続けなければなりませんでした。三日後に彼の訪問に気づいたシヴァ神は、ただひたすら待ち続けたヴァラドワージャのバクティに満足し、彼を祝福しただけでなく、カリユガの世でヴァラドワージャの家系に3度化身することを約束しました。最初は、シヴァ神だけがシルディサイババとして、2度目はシヴァとシャクティがサティヤサイババとして、3度目はシャクティだけがプレマサイババとして。

                 

サイババ様の御言葉

『私は、招かれもしないのにこの世界へ来たわけではありません。
あらゆる宗派、あらゆるところに生きる行者、聖者、賢人、・・・そして、善良な人々が私を呼び、来てくださいと祈ったので、私は来たのです』

『今も、これからも、あなた方が私の真の姿を知ることはできません。
たとえ、全人類が力を合わせて探求し、必死で何千年の歳月をかけて努力を積み重ねたとしても、です』

『アヴァターは、自らの前世や来世の数々を知っているだけでなく、生あるものすべての過去世、現世、来世についても知っています。
けれど人は、自分の過去世や来世が分らず、現世での自分の未来についてさえ分かりません。
それでどうして、アヴァターを理解することができるでしょうか?』

『私には、どれほど徹底した探求も、最も注意深い計測も及びません。唯一、私の愛を認知し、体験した者たちだけが、私の神性さを垣間見ようという志を抱くことができるのです』

『私は、私の直前のアヴァターとしての名前を明かしました。それはつまり、シルディ サイババとして来たものが再びサティヤ サイババとして今、こうしてやって来たことを意味しているのです。
さらにサイは三人現れることになっています。

このアヴァターの他にもう一人、プレーマ サイがいるのです』
(サイラムニュース NO162 より抜粋)
 

『ヴェーダは正に、神の言葉です。

ヴェーダは人間によって書かれた書物ではありません。
ヴェーダは、至高の目的に達する方法についてなされた多くの探究に対して、神が与えた《啓示》です。

ヴェーダは、神の存在を示し、強調するためだけに、形を取りました。

ヒンドゥーの、シッダプルシャ⦅霊性修業の最高の境地に達した者⦆は、ヴェーダの定めた道を歩み、ヴェーダの教えに従って探求を続けました。経典は、彼らの得た体験と至福を正しく記述しています。
                 (中略)
その目的は、むなしい信仰ではありません。それは、到達した境地であり、得た叡智です。
                 (中略)
聖者と偉大なリシ(賢者)は偉大な至福を体験しました。
彼らは、自分たちの体験した至福を、分りやすい、理解することのできる言葉によって世界に伝えました。
手の届かぬところにある月は、(それを知る人が)月のある方向を指さすことによって知ることができます。それと同様に、聖者はそれぞれの到達した境地に応じて、人の心と言葉の及ばぬ彼方にある真理を、人の手の届くところにもたらしました』

サティヤサイババ著『サティヤ サイ ヴァヒニ』 より抜粋
 

 

以下は、今から約5年前の2015年9月29日にアップした記事のコピペです。

新型コロナという暗雲にのみ込まれた感のある今読み返してみたら、そこそこ面白かったので再掲載してみました。

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《ヴェーダやヴェーダーンタも、サイババ様も、宇宙がビッグバンと呼ばれているような現象とともに誕生したことは認めますが、自然科学のように、それが偶然に起こった 「たった一度のできごとである」 ということには同意しません。
そうではなく、生物が輪廻転生するように、宇宙もまた、誕生しては滅び、滅んでは生まれ変わり続けていると証言しています。

私たちの先祖は、この宇宙の中に、名や姿を持った多くの 『神』 という存在を見出し信仰してきましたが、ヴェーダやヴェーダーンタも、サイババ様も、「この宇宙の中に生まれ、この宇宙とともに滅びゆく存在は、真の神ではない」 と教えます。

そうした神々(日本において八百万の神と呼ばれているような神々)は、ヴェーダやヴェーダーンタでは半神と呼ばれていて、自然のある部分を司っている超自然的な神的存在ではあっても、この宇宙を創造した究極の神秘である《至高神》ではないということです。

もっとわかりやすく言うなら、それは宇宙を生み落とした存在ではなく、宇宙とともに創造神によって生み落とされた存在であるということです。

そうした神々(半神)もまた輪廻転生し、最終的なゴールに辿り着くには、人間としての生を得る必要があるといわれています。


したがって、すべての人の人生において、生きることは目的ではなく、あくまでも目的を達成するために与えられた 『手段』 であり、目的は、真理を悟り、神としての真の自己を実現すること、、つまり解脱です。

この世に姿や形を持ち、物質や物理的エネルギーとして観測できる宇宙は、樹木を例にとって言えば幹や枝や葉や花や果実であり、極めて表面的な部分です。
なぜなら、そうした樹木を真に存在させているものは、そうした目に見える部分ではなく、地下に埋もれていて目には見えない、根の部分だからです。

木の幹を切り倒しても、根がある限り木は何度でも再生します。
それは、木が地上に芽を出し、成長し、枝葉を生い茂らせ、花を咲かせ、果実を実らせるのは、地上に姿を現している木そのものにその力があるからではなく、すべては地下に姿を隠している根から与えられているものだからです。

それと同じように、宇宙もまた、それを生み出し、育んでいるものは、目に見え、物理的に観測できる、物質的な宇宙そのものの中にあるのではなく、《神》という、物理的に探し出すことも、人智によって理解することもできない、不可知の領域に隠れ潜んでいる超越的な存在にあるのです。

宇宙がそうであるように、その宇宙に生み落とされている私たちの存在基盤もまた、宇宙そのものにあるのではなく、宇宙を超越して不可知である《神》にあるのです。

このことを理解できない限り、自分がなぜこの世に存在しているのか、自分という存在はどこから来てどこへ行こうとしているのか、何を為し、何を為すべきではないのかを理解することはできません。
つまり 「正しく生きることができない」 ということです。

それを理解する力は、頭脳にはありません。
しかし、頭脳は、それができるという迷妄を生み出し、その迷妄の中に人を呑み込んでいきます。
その結果、人は、あたかも蚕が自分が吐き出した繭によって自分自身を闇の中に閉じ込めてしまうように、自らの頭脳が生み出す迷妄によって、それを叡智と勘違いしながら無知という闇の中に閉じ込められているのです。

その結果として出来上がったのが、私たちであり、私たちの目の前に広がっている世界です。

そこにあるのは、進化した人間の叡智の結晶として作られた、人類史上最も輝かしい幸福と希望に満ちた世界のはずです。
しかし、その栄光は、人々の幸福は、希望は、どこにあるのでしょう?

ある時期から人々は、神を信仰することをやめ、人間の頭脳と、頭脳が生み出す科学に跪くようになりました。
その結果何が起こったでしょうか?

人が神を信仰していた時、自然は万物の母であるという意識のもと、自然に対して敬意を払い、愛していました。
人が神を無視し、頭脳に跪き始めた瞬間から、人は自然を自らの支配下に置くべき道具であると考えるようになり、好き勝手に破壊し、自分たちの都合のいいように作り変えようとし始めました。

その結果、何が起こっているのか、もはや誰の目にも明らかです。
しかし、頭脳にだけ頼って自然を理解しようとする人々の智の本質は迷妄であるため、なぜそうなってしまったのかを理解できません。

それを理解できる真の叡智は、頭脳に頼る唯物論者の中にではなく、神に帰依する霊的賢者の中にしかありません。

頭脳にだけ頼る人は、表面的な物事しか理解できないため、何を考え、何をするときでも 「自然というものが、そこに存在している《すべての生物》 《すべての環境》 《すべての現象》 といったものの総合的な働きの結果として生み落され、育まれ、維持運営されているものである」 ということを忘れがちです。

そのため、人類に病をもたらすウイルスや、生活するのに不都合な環境を排除し、人類にとって都合の言い生物だけを増やしたり、新たに作り出していけばいくほどに、「この世界は、人類にとって快適で住みやすい世界になっていくに違いない」 と言うような考えにたやすく陥ります。

しかし、霊的な世界に住まう真の賢者たちや、その賢者たちが真の智の至宝と崇める天啓聖典ヴェーダやヴェーダーンタも、アヴァーターと崇めるサイババ様も 「それは頭脳が描き出しただけの愚か待迷妄であり、現実は決してそうはならない」 と告げてきます。

何故なら、自然というものが、自然の中に存在しているすべてのものの働きの生で作られているものである以上、そこに人間にとってどれほど都合に悪い生物や現象や環境が存在していたとしても、それらのすべては、あくまで人間の利己的な目から見た場合の話しであり、自然そのもにとっそうではなく、それらのすべてが自然をその状態に維持するためには必要不可欠な存在であることを意味しているからです。

つまり、「自然の中に、人間にとって不都合な生物は存在していたとしても、自然に不都合な生物や、必要のない生物など、ただの一つも存在していない」 ということなのです。

頭脳にだけ頼る人間は、自然の一部分だけを自分たちの都合のいいように変えることが可能だと考えて、それを試みます。
しかしその結果として、予想もしなかったような変化が、地球環境全体で起こります。

例えば、人類と、人類に病をもたらすウイルスという二者の関係について考えてみます。
頭脳が生み出す知恵のみで物事を考える人々は、病をもたらすウイルスを滅ぼすことで、確実に人間は一つの病からは解放され健康への切符を手に入れられるになると考えます。

しかし、賢者は 「決してそうはならない」 と警告します。
なぜなら、人もウイルスも、ともに自然の一部であり、自然によって生み出され、自然によって育まれているものであるからです。

そうである以上、その事実が究極的に私たちに突き付けてくる命題と言うものは 「人類の側に、病気やウイルスを滅ぼそうとする力が医学として存在しているという事実が逆説的に暗示していることは、病気やウイルスの方にも、そうした人類の力に対抗して生き残るための潜在的な力を自然は必ず与えて育んでいるはずである」 ということです。

そうして建設された生命モデルは、私たちに対して 「この先人類が、どこまで医学を発達させたとしても、その結果として得られる医学の勝利は常に一時的なものでしかなく、その勝利の後には必ず進化によって体制を立て直した病の側からの、新たな反撃が加えられ、その戦いはどこまで行っても、決して決着を見ることのない、永遠のいたちごっこに終わらざるを得ないものになるのだ」 ということを教えるものになるのです。

こうした形而上学によって描き出されていく生命モデルは、自然科学によって取り扱えないものであるため、これまでは、科学の崇拝者たちによって 『絵空事』 として無視されてきました。

しかしそれが本当に 「まともな人間が関わるべきでない絵空事」 と無視していいものかどうかは、誰もが目の前の現実を、ただあるがままに直視さえすればわかるはずのものなのです。

少なくともこうした生命モデルの正しさは、かつて夢の治療薬として登場した抗生物質が、それを使って治療すればするほどに、一時的には医学が勝利をおさめたかに見える状況の陰では、抗生物質によって手痛い打撃を受けた病原菌が逆にその毒性を利用して巧みに進化し、さらに強力な、薬によっては殺すことのできない耐性菌となって人類の前に立ちはだかり始めていることや、自然界にはウイルスという遺伝子の運び屋が存在し、常にそのウイルスによる遺伝子組み換えが行われていて、いつ人類の存亡を脅かす未知の病原菌が誕生するかわからないということの発見や、現実に、新型インフルエンザや、エボラ出血熱などの脅威が、人類の未来に重大な暗雲を投げかける現象をおこし始めているという事実が教えてくれているものなのです。

私たちは今まで、医学がこれまで成し遂げてきた輝かしい勝利の話しや、これから医学が成し遂げていくであろう輝かしい勝利の話し、医学が私たちにもたらすであろう夢の新薬、夢の医療技術、夢の医療体制といった話をいったいどれほど聞かされてきたでしょうか?

その結果として私たちの目の前にやってきている現実はどうなのでしょうか?

それは本当に、私たちがこれまで聞かされてきたような、医学の発達によって、一つ、また一つと、それまで人類を苦しめていた病から解放され、健康を謳歌しながら人生を全うできるような輝かしいものとして私たちの前に存在しているでしょうか?

それともそれは、医学が発達すればするほどに、医者や病院が国中に行き渡れば行き渡るほどに、それを必要とする病人も増え続け、新たな治療薬が開発されればされただけ、新しい病も世界のどこかで発生し続け、新たな治療法や技術が開発されればされただけ、それによって救われる人がいる反面、その治療が原因となって生み出されていく新たな問題や悲劇も増え続けているという奇妙なものになってはいないでしょうか?

それでもまだ、私たちが、そうなることを警告してきた賢者の意見ではなく、そうした意見をあざ笑い無視し続けてきた人々の意見だけに価値を見出すべきなのでしょか。

少なくともヴェーダやヴェーダーンタは、「このまま人類が、人類の一方的な都合だけを持ちだして、全体的な自然の言い分を無視した傲慢なやり方で自然を作り替えようとするのであれば、その結果として人類が手にするものは、豊かさでも、快適さでも、便利さでもなく、その反作用として自然の摂理が生み落す、人類が手にした豊かさも快適さも便利さも打ち砕こうとする新たな災害であり、もし人類が、人類の一方的な都合だけを持ちだして、病をなりふり構わぬ力づくで滅ぼし、死が決して避けられないものであるにもかかわらず、なりふり構わず遠ざけようとだけするのであれば、その結果として人類が手に入れるものは、健康でも幸福でもなく、その反作用として自然の摂理が生み落す新たな病であり悲劇である」 と警告してきます。

しかし、だからと言って、人類が科学や医学を発達させることによって、自らの健康と繁栄を求めてはいけないと言っているわけではありません。

ただ、「さも自然が自分たちのためだけにあるとでも言うような傲慢さで、世界を作り替えようとするような科学や医学は、決して人類に真の幸福も繁栄も健康ももたらすことはなく、その反作用として自然の摂理が生み落す新たな不幸、新たな病、新たな悲劇をもたらすだけである」 と警告しているだけです。

人間は自然を作り替えるために生まれてきたのではなく、自分を変容させるために生まれてきたのだからです。
しかし残念ながら、そうしたヴェーダやヴェーダーンタの教えを理解する力は、頭脳には存在していません。

それは私たちが、頭脳が生み出す知的な迷妄を離れて、自らの内宇宙の深遠に隠されている霊性に立ち返った時に初めて理解できるものなのです。

サイババ様の御言葉
『ヴェーダは、三つの場・・・過去・現在・未来を貫く時の流れによって、変えられることも、覆されることもない真理を説いています。

ヴェーダーは、三界(筆者注釈  天界・地界・現象界)の繁栄と幸福を確実にします。
ヴェーダは、人間社会に平和と安全を授けます。

ヴェーダは、真理の言葉の集大成であり、開かれた意識の中にそれらを受け取る能力を得た聖賢たちによって霊視されたものです。

実に、その言葉は、まさに至高者である神の息吹です。
ヴェーダの比類なき重要性は、こうした事実に基づいています』

『この世に生きるものは皆、欲しいものが手に入るよう、そして、嫌なことを避けられるように努力します。
ヴェーダは、その両方を成就させる方法を説いていることを知りなさい。
言い換えるならば、ヴェーダは、《しなければならないこと》と、《してはならないこと》を明言しているのです。
その定めと禁令に従うなら、人は利益を得、悪を避けることができます。

ヴェーダは《物質的なもの》と⦅霊的なもの》、《現世》と《現世を超えた世界》の両方に関係しています』
こうしたものが導くことができる深みや高みに気づいていない者は、その効力を論ずるべきではありません。
                            (中略)
百万冊の本から集められた博識よりもはるかに貴重なものは、一度の瞑想を通して得た叡智という穀物です。
その閃光(グニャーナ)【叡智】は、どんなに微かであったとしても、貴い取得物です。

サティヤ サイババ著 「ヴェーダ」 より抜粋
 

令和二年というべきかコロナ元年というべきかわかりませんが、2020年もすでに3/4が過ぎてしまっていて、この9か月を冷静に振り返ってみるとなんとなく不思議な感じです。

 

基本的にはこの9か月、私にとっては良い事しか起こっていないという感覚なのですが、それと同時に、自分は世の中のことを本当に何にも知らなかったんだなぁということを教えられた9か月でもありました。

 

コロナや環境破壊などの話ではありません。

私がそれまで漠然と、世界中の人間が、人間である以上最低限持ち続けているでろうと思い込んでいたものが、これほどまでに崩壊しているとは思ってもいなかったという話です。

もっと分かりやすく言うと、ふと気づけば世界が行き過ぎた人権思想、ポリコレ、アンティファ、フェミニズム、平等思想、、、などによって蝕まれ世紀末的に崩壊していて驚いたという話。

最近日本の有名芸能人の自殺が立て続けに起こって社会問題化していますが(自殺そのものが増えていて、特に30歳未満の若い女性の自殺が二倍近くに増えているらしいですが)、この世界のありさまを見せつけられると、こんな世の中を唯物論者として普通に生きていける人のほうがサイコパスで、自殺している人のほうがまともに思えるくらいです。

(誤解なきよう注釈を入れておきますが、サイババ様は自殺を一切認めておられませんし、ご講話の中で繰り返し「決してそのようなバカげたことをしてはなりません。自殺という愚かな行為によって自分を滅ぼすことがもしあれば、それは『私』に苦痛を与える行為なのです。よく覚えていなさい」「自殺という考えば、臆病の最も卑しむべき形から生まれるものです。そのようなものがあなたに影響を及ぼすのを許してはなりません。勇敢でありなさい。自分に襲い掛かってくるかもしれないどんな災難にも負けないと決意するほどに勇敢でありなさい」と戒めておられます。なぜそのように自殺を断罪されるかというと、自殺によって自分の肉体を物理的に殺しても、その時心が抱え込んでいた苦悩から逃れることはできないからです。つまり、物質としての肉体を滅ぼしても、心を滅ぼすことはできないということです。人間の肉体は、一番外側に物質としての肉体を持ち、その内側に生気でできた肉体(鞘)を持ち、その内側に心でできた肉体を持ち、その内側に知性でできた肉体を持ち、その内側に至福でできた肉体を持ち、その5重の肉体によってその内側に秘められている真の自己であるアートマンを保護しています。自殺によって滅びるのは、あくまで肉体とその肉体に命を与えて動かしている生気の鞘だけで、そのうちにある心や知性やアートマの複合体である魂は無傷で生き残っているため、自殺によって問題は解決しないのです。 「心というものはそれほどたやすく殺すことはできません。人間が一生の間にすることはすべて心に焼き付けられていて、次の人生まで持ち越されます。誰も心の性質を理解することはできません。中には自分の経験するすべての問題に終止符を打つ方法は自殺しかないと考える人たちがいます。自殺は最大の罪です。心はそれほど簡単に殺すことはできません!そのような誤った考えを抱くべきではありません。人はいかなる困難にも根気強く立ち向かい、自分の人生を神聖なものにしようという覚悟ができていなければなりません」 ただ、一つ付け加えておきたいこともあります。それは「自殺は許されないことであり、最悪の罪ではあるけれども、それよりも重い罪がある」ということです。それは、一部の人たちのように「自殺した人を断罪したり、非難すること」です。自殺した人の罪より、自殺した人を非難したり断罪したりするほうがより重い罪なのです。

 

世界がこれほど醜悪に壊れていまっている原因は、ほとんどすべての人々が、この宇宙には、人であれ、天界の神々であれ、命を持っているものは何であれ、無条件に従わなければいけないもの、、、言い換えれば、誰であれ決して変えようとしてはいけないものがあるということを知らない(もしくは気づこうとしていない)からです。

例えば、自然科学の世界では、この宇宙には、重力定数、プランク定数などの、宇宙を宇宙として成り立たせている14の定数があることが知られています。

14ある定数のうちたとえ一つでも、そしてほんのわずかでもこの値を人類が変えてしまえば宇宙はその瞬間にでも崩壊してしまうでしょう。

つまり、この宇宙にはこの宇宙が生み落とされた時点でこの宇宙のすべてを維持運営するために授けられていた絶対不可触の力があるということです。

我々は宇宙と別物ではなく、宇宙の一部であり、と同時に宇宙そのものです。

また、我々人間は物理的な存在であると同時に、精神的、霊的、文化的な存在でもあります。

そしてそれらもまた宇宙の一部であり、宇宙そのものです。

である以上そうしたものの中にも、人間が人間である以上無条件に従わなければいけないもの、受け入れなければならないものが存在しているといいことです。

 

それを太古から教えてきたのがヴェーダーであり、ヴェーダンタであり、ヒンドゥの叙事詩であり、古潭であり、神話であり、神の法典であり聖者であり、賢者であり、アヴァターです。

 

神の創造は無限であり、時間の流れも無限であり、人の生活様式や、思想、文化、も絶えず変化していきます。

しかしその変化の正体とは何でしょう?

それは原初にあった正しいものの破壊や崩壊です。

人間の心や知性や理性が考え出した新しい価値観に基づいた文化や思想というものの正体はこれであって、これ以外の何物でもありません。

 

今人間社会を無茶苦茶にしているものは主に「自分には生まれながらに好き勝手に生きる自由がある」「人として生まれ持った権利、国民として保障されるべき権利がある」という思想です。

しかし、こうした人々には共通してかけている思想があります。

それは 「自分には生まれ持った自由があるというのであれば、他のすべての人にも生まれ持った自由があるということであり、そうである以上、自分の自由は無制限に主張できるものではなく、他の人々と折り合いをつけながら、他人に害をなさないように、社会の発展、秩序、公共の利益に貢献するような心づかいの中で運用すべきものである」 とい思想であり、自分に、生まれ持った人としての権利、国民として国から保証されるべき権利があるというのであれば、その国は、その他大勢の国民の労働や奉仕や義務の遂行によって維持運営されているものなのだから、自分にもその国民の一人として、人としてなすべき義務、国民として国になすべき義務がある」 という思想です。

 

サイババ様によれば、実を言うと人間には生まれ持ったものとして与えられている人間としての権利などありません。

人間にあるのは、人としてなすべき義務だけです。

 

パラドックスのようですが、しかしながら、神はすべての人間に、生まれながらに人権を与えています。

しかしそれは、無条件に与えられているものではなく、何も持たずに生まれてきた無力な人間に、その先人生を構築していくために融資されるこれからの人生の運営資金のようなもので、人としての義務(最初は人間としての社会性、善良さ、礼儀作法、徳などを身に着けること)を果たすことで返済していかなければならないものです。

したがって、義務を果たさずに、権利や自由を得ようとしたり、そうした人々を擁護、容認しようとしたりする人々はすべからく罪人であり、正されるべき人々です。

もしこれがなされなければ、社会そのものが滅びていくリスクを抱え込むことになります。

なぜなら、カルマの法則の中で、彼らの過ちや彼らを擁護する国の過ちがあらゆる災厄の形をとって未来に待ち構えることになるからです。

 

ヴェーダやサイババ様の教えと、現代の人々がどうかかわりあっていくべきかについて、あるインドの詩人は以下のように言及しています。

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「もし今日、木が美しく見えるなら、そこには太古の根と、誕生したばかりの新芽が存在するからである。

春の季節に樹木が美しく見えるのはそれゆえである。

それと同様に、新しい科学戦略が、根本的で太古から久遠に続く聖賢の金言の哲学と結びつくなら、それは人類に幸福をもたらすであろう」

 

今回の記事は以上です。

ではまた。

みんな幸せになりますように。

サイラム<(_ _)>