太田垣蓮月尼 | 京都 de 茶の湯 / 西方庵

京都 de 茶の湯 / 西方庵

京都・嵐山近くで、四季の移ろいを愛でながら茶の湯を楽しんでいる侘び茶人・ 笹峯宗桓のブログです。400年以上の歴史を持つ鹿児島示現流兵法の門友として、鍛練に励んでもおります。

京都・西賀茂の「神光院(じんこういん)」さんの長い参道を歩いて山門を入ると、左手に「太田垣蓮月尼」さんが晩年に棲まれた庵(茶所)があります。横に井戸があり、「蓮月尼(れんげつに)」さんが水を汲まれた御姿が偲ばれます。

「蓮月尼」さんは、江戸~明治時代の尼僧であり、歌人、陶芸家でもあります。立派な出自ながらも、二度の結婚で得た家族の全てを病で失うなどの幾他の不幸に遭い、出家して「蓮月」と称されました。

大変に美しい人であったがために、言い寄る男性が後を絶たず。自ら歯を抜いて美貌を除くほど気丈で一筋に生きた御方でした。

 

生計を立てるために、無経験であった焼き物の製作を始め、縷々辛苦された結果、茶椀などに自作の和歌を「釘(くぎ)」で刻んだ「蓮月焼」がブームになりました。

 

しかしながら、無欲な方で、たびたび京都を襲った飢饉に私財を投じ、鴨川に橋(丸太町橋)を私財で架けて人々の難儀を援けるなど、清廉な人生を歩みました。自分は家財道具を持たず、来客に木の葉の上に飯を盛って出すほどの簡素な生活だったそうです。自分用に作っておいた棺桶を、貧しい村人が亡くなる度に提供したという逸話もあります。

 

また、余りに「蓮月焼」の人気が高いので贋作も多く出ましたが、贋作者に作ったら持って来なさいと言って歌を書いてあげたほど、底知れない寛容な御人柄でした。

 

家庭的には不幸でしたが、「蓮月尼」さんの侍童であった画家「富岡鉄斎」との実の親子のような親交も知られています。

「神光院」さんから西側の山手へ10分ほど歩いた「西方寺」さんの墓地の、大きな樹の根元に小さくて可愛いお墓があります。

 

「蓮月尼」さんは、まさに「覚悟ひとつ」でこの世を生き貫いた御方であったと思います。

 「願わくは のちの蓮の花の上に 

   くもらぬ月をみるよしもがな」(辞世の歌)

 

「うつ人も うたるる人も心せよ 

   同じ御国の 御民ならずや」  

「あだみかた 勝つも負くるも哀なり

   同じ御国の 人と思へば」

   (江戸攻撃に向かう西郷隆盛へ渡した?と言われる歌)