認知症当事者の方の「本人の声を聞こう」シンポジウムに参加したり、介護に関わるお仕事の人たちと話して感じたこと。
「その人のため」といって、その人の声を聞かず周りで何もかも決めてしまう
という思いやりという名の罪。
食べない時でも本人の意思に関係なく
とにかく食事は全部たべさせてください。栄養をしっかりとってほしいのです。
と、介護職員に迫る家族。そして家族の意見には逆らえない職員。
延命治療を望んでいないのに
少しでも容体が変化すると救急車をよんで病院へ
病院に看取りを委ねる家族。
全てにおいて「その人のため」という「思いやり」と錯覚する行為が、ともすれば虐待にもなりかねない行為であることに気づいていないことが多い。
虐待なんて言い過ぎだ!と言われるかもしれませんが、自分にとって不快なことが続くことは、苦痛を通り越してしまうように思います。
わからないから
という決めつけ
食べることが健康につながる
という思い込みと誤った情報
延命治療を希望しても最期は病院
という矛盾
- 本当に何もわからないのか?
- 本当に食べることが健康と幸せにつながるのか?
- 本当に自分の最期を自分らしく終わらせたいと思っているのか?
全てはその人本人に聞かなければわかりません。
どんなにその人のことを思っても、考えても、その人の心の中全てを知ることなどできません。
その反対で、
- 自分らしく生きたい
- 最期まで人としての尊厳を保ちたい
と思っているのなら、その思いや希望を伝えておかなければ、家族だってあなたではないのだから、全てを理解しているわけではありません。
- まだ早い
- もう少ししたら
- その時がきたら
そう思って先延ばしにしている結果が「本人置き去り」になっているという現実。
どんなに頑張っても、どんなに予防に励んでも、病気や認知症を発症する時はするし、どんなに抵抗しても生きている以上、人間は年をとるし死を迎えるのです。
それでもまだ、誰にも何も伝えないことを選びますか?
それでもまだ、エンディングノートはまだ書かなくて良い、と言いますか?
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◆協会からのお知らせ◆
2017年11月11日(土)から三回連続の
看取りを語る・考える講演会
を開催します。
第一回目は〜介護の立場から〜をテーマに考えます。
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