現代のエキス、昔のエキス | 特許翻訳 A to Z

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1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

香粧品、特に調香の分野では、英語のextractに対応する「抽出物」「エキストラクト」「エキス」の意味が異なる場合があるようです。
これに端を発して、知り合いの特許技術者との間で、「エキス」の話題に。


そして、「エキス」は意味が一義に定まらないため明細書では定義なしには使えない、少なくとも翻訳で使っても何もよいことがないと教わりました。

たしかに、分野を問わず、「エキス」という語は非常に曖昧です。
 

国語辞典や百科事典はもとより、専門辞書でも複数の定義が存在していますから、裁判で「何をどこまで含むのか」という争いにでもなろうものなら、泥沼化しかねません。

翻訳上は、たとえば「抽出物」としておくほうが、よほど問題にならずにすむようです。

さて。
この「エキス」という語については、オランダ語の略だという説があちこちに書かれていました。
たとえば、三省堂の『大辞林』が次のように説明しています。
 

〔エキストラクト(オランダ extract)の略〕
①薬効のある植物・動物などの有効成分を抽出して,濃い液体や粉末にしたもの。 「梅肉-」
② 物事のいちばん重要な部分。本質。精髄。粋。生粋。エッセンス。 「慾といふものはね,人間を蒸餾して取つた-だよ/其面影 四迷」 〔「越幾斯」とも当てた〕

 

ここに、越幾斯という漢字がありますね。

国会図書館デジタルコレクションで「越幾斯」を検索すると、最も古い1870年の『袖珍薬説』以下、薬物に関する資料ばかりです。
1900年代に入ると香粧品にも見られますが、最初は医薬分野で使われるようになったのでしょう。
そのことに照らしても、オランダ語由来というのは何となくわかります。

もうひとつ、平凡社の『大辭典 第3巻』から旧字を現代漢字に直して引用します。

 

エキス 越幾斯
精の字をも当つ。徳川時代に和蘭薬局方の術語の入りし外来語で、蘭語のextractの略称。生薬又は食品の溶解すべき主成分を水・エーテル・酒精類にて抽出し、これを適当の稠度に蒸発濃縮せし、液状或は弧形状の物質。 (p.468)

 

小学館の『日本国語大辞典 第2巻』によると、1833年刊の『植学啓原』に「越幾斯」が登場するとか。

実物を確認してみたところ、巻三に「越幾斯答刺屈多分」という見出しがついた章があり、冒頭は「越幾斯剤之首分也」となっていました。
越幾斯答刺屈多は、おそらく「エキストラクト」に対する当て字でしょう。

もう少し遡ってみたところ、『遠西醫方名物考 巻四』にも「蒲公英越幾斯」が出ています。
(PDFの2/31 一番左)

さらに遡ります。すると・・・・

宇田川玄真(榛斎)が複数の書物を翻訳してまとめた稿本に、養子である榕菴が校訂を加えて刊行したとされる『和蘭薬鏡』に、非常に興味深い記述を見つけました。

1820年の『和蘭薬鏡 巻1』のPDF 12/29です。


和蘭ノ方書ニ載ル製剤ノ名其冗長ヲ省テ約略スル者多シ假令バ丁幾去爾[ティンキテゥル]ヲ丁幾トシ越幾斯託刺窟多[エキスタラクト]ヲ越幾斯託トシ・・・

 

オランダの書物に記載された製剤名が長いため省略する人が多い、と。
こういう理由で、「越幾斯」になったのですね。

他には、1969年刊行の『薬史学雑誌』p.44 「洋方エキス小史」に、「皇漢医方では古くから本剤を膏といい生薬の煎熱によって製していた。洋方としては宇田川椀園訳の製煉術(天明頃)に記されているのが最初である」とあります。
この「洋方エキス小史」には、当時のエキスの定義や製法もあげられていました。

『製煉術』の現物は確認できていないのですが、いずれにしろ「エキス」は医師でもあった蘭学者たちが使い始めた言葉のようです。
それが時代を下るにつれて、少しずつ意味の幅が広がっていったのでしょう。

こうした背景に鑑みても、少なくとも特許では、extractの訳に「エキス」は使いにくいですね。
 

本当に、実務現場にいる特許技術者や弁理士から学ぶことや考えさせられることは、つきません。
ありがとうございました。

 


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