複数の辞書を、確認すると・・・ | 特許翻訳 A to Z

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再び例として「雰囲気」を取り上げますが、「○○雰囲気下」の由来探しとは完全に別の話です。
今回は、辞書について。

まず、複数の辞書から、「雰囲気」に関する事項を抜粋します。
 

ふんいき
オランダ語luchtの訳語。杉田玄端『健全学』(慶応3)に「酸素ノ大聚積槽は雰囲気なり」とある。
  東京堂出版 『明治のことば辞典』 (1986) p. 510~511

ふんい‐き[フンヰ:]【雰囲気】

(1)天体、特に地球をとりまく気体。
*気海観瀾〔1827〕「雰囲気者、不啻交諸雰気蒸気之自地升騰者、気之原質亦不一」

(中略)

語誌
幕末までは、オランダ語Lucht の訳語として(1)の挙例「気海観瀾」などの蘭学書に見える言葉であったが、明治初期に英語atmosphere の訳語として一般化した。
  小学館 『日本国語大辞典』 11 「はん-ほうへ」 (2006) p.1110

雰囲気

「英語atmosphereの訳語」が語源です。「雰(霜、霧、気体)+囲(まわり)」+気」という訳語です。
  ミネルヴァ書房 『日本語源広辞典 増補版』 (2012) p.953
 


さて。
『健全学』の蘭語原書は?でオランダ語とともに示したように、少なくとも『健全学』での「雰囲気」は、luchtではなく「dampkringslucht」を翻訳したものでした。
そして蘭蘭辞典で引いたdampkringsの意味は、地球のまわりにある空気の層です。

一方、大学書林 『オランダ語辞典』 (2014)によると、dampは「蒸気」、kringは「円」「範囲」「圏」などを意味する単語で、dampkringが「大気」「気圏」。

英語でも、大気圏、外気圏、熱圏、中間圏、対流圏、成層圏の「圏」が-sphereで、atmosphereのatmo-は蒸気ですから、全く同じです。

かたやオランダ語のluchtは、「空気」「大気」。
そしてdampkringとluchtの両方に、「雰囲気」という訳語もあるにはあります。

 

 

日本語のほうは、たとえば「」を『講談社新大字典』で引くと、字義として「きり」。「雲霧の気」とあります(p. 2501)。
大修館書店の『大漢語林』には、「雨+分」として、「音符の分は、分散するの意味。雨が分散する、きりの意味を表す」と説明されています(p.1499)。

また、『日本国語大辞典』によれば、1827年の『気海観瀾』に「雰囲気」があります。
そこで、この『気海観瀾』を閲覧してみました。

たしかに、同書には「雰囲気」という文字の並びが、何度か出ています。
ただ、前後の文に照らすと、これは「雰囲気」という1つの単語ではなく、「雰囲」と「気」にわかれている可能性があるのではないかなと。

漢文で書かれていて完全には読めていないのですが、まず第一に、全体が40項目で構成され、この中に「雰圍」という項が含まれます。

そして7ページ目に、

  地球為気海中之一大體亦有所自發之氣周圍其外此謂之雰圍

あるいは

  低處即是地面人之所以生活呼吸於其中之氣也雰圍之氣擴於氣海

と記載されています。

日本大学松戸歯学部 一般教育紀要代8号 p.72 『青地林宗の「気海観瀾」にみられる生理学的内容の検討』によると、読み下しは「地球は氣海中の一大体たり。亦自ら発する所の気あり、周く其の外を圍む。此を之れ雰圍と謂ふ」「雰圍の低處、即ち是れ地面、人の以て其の中に生活呼吸する所のなり」だそうです。
強調は、こちらで付しました。

この「雰圍之氣擴於氣海」の数ページ後ろで、「雰圍氣」になっています。
ほかにも、「雰圍」と「氣」は独立に何度も使われていますから、それで両者は別ではないかなと。

語句の意味を調べてみたところ、「氣海」が地表の大気を意味することはわかりました。
上述のように「雰」は霧ですので、地表の空気を囲んでいる霧だと考えると、「雰囲」に辻褄が合います。

こうして順に考えていくと、『気海観瀾』は漢文で漢字が並んでいるがゆえに、たまたま雰囲気という文字並びになっただけで、言葉としてはあくまで「雰囲」+「気」のように思うのです。

同様、『健全学』で使われた「雰圍氣」も、やはりluchtよりdampkringsluchtに近い感じがします。
dampkrings=「雰囲」とlucht=「気」のほうが、自然なので。

このように、同じ語でも複数の辞書を確認すると、調べた中には書かれていない要素が浮上することが、ときどきあるのですね。
現代の英英辞典、英和辞典でも同様です。

翻訳業界では、昔からよく「辞書を使うのであれば必ず複数引くように」と言われますけれど、本当にそのとおりだと思います。

 


なお、『気海観瀾』については、『日本大百科全書』に次のように説明されています。

 

日本で最初の物理科学書。青地林宗(あおちりんそう)が1825年(文政8)に訳述、27年に刊行。すでに『格物綜凡(かくぶつそうはん)』と題して訳述していたボイスJohannes Buys著の理科の書『Natuurkundig Schoolboek』(1798)のなかから「気性」に関する部分だけ数十章を抄出したもの。

 

そこでためしに、この『Natuurkundig schoolboek』を追ってみました。

116ページと117ページとの境目あたりに、luchtを関係詞で修飾して「kring van dampen (蒸気の圏、円)」を形成する「fijne vloeistof (細かい液体)」と説明していると思われる部分があります。

そして全体ではluchtが64箇所、dampkringは24箇所に出てくるのですが、dampkringは上記の「蒸気の圏を形成する細かい液体」の説明のすぐあと、117ページの真ん中より少し上に、最初に出てきます。

この117ページには、
 

  「overal, om den aardbol heen; omringt denzelven, en maakt, met de daarin oprijzende dampen, den dampkring uit.」
という記述があり、Googleに英訳してもらったところ
  「anywhere around the globe; surrounds it, and makes, with the rising vapors therein, from the atmosphere」となりました。まさに、

  「地球は氣海中の一大体たり。亦自ら発する所の気あり、周く其の外を圍む。此を之れ雰圍と謂ふ」ではないかなとか。

さすがに全文は読めないのですが、『日本国語大辞典』の「雰囲気者、不啻交諸雰気蒸気之自地升騰者」で、「啻」は「単に~だけ」という意味のようなので、以下の部分が似ています。

De lucht van onzen dampkring bestaat niet uit eene zelfde soort, en is niet alleen een mengsel van alle dampen en uitwasemingen, die van de aarde oprijzen
(p.148)

[参考Google英訳]

The air is not of our atmosphere is composed of one same kind, and is not just a mixture of all the vapors and fumes which rise from the earth

仮に「雰囲気者・・・」が対応しているとすると、「雰囲気」は「lucht」と「dampkring」の2単語ですね。
 

そして上述のように、『健全学』のdampkringsluchtも、dampkring=「雰囲」とlucht=「気」の複合語と考えるほうが自然な感じがします。

以上の諸点に鑑みて、江戸時代にオランダ語から翻訳された「雰囲気」は「lucht」の訳語ではなく、「damp (水蒸気)+kring (円、圏)」にあたる「雰囲」と「lucht (気)」を組み合わせた複合的な訳語ではないか、というのが、現時点での私の結論です。

「○○雰囲気下」とは全く関係ないですが、調べついででしたので、掘り下げてみました。

 

(完)

 


■関連記事 (連載です)
○○雰囲気下の謎、再び
『健全学』の蘭語原書は?
「雰囲気」は、翻訳で生まれた学術用語
「○○雰囲気下」と、翻訳公報
『日本国語大辞典』に、手がかり発見
イオン雰囲気は、ドイツ語由来
誤訳も普及すれば・・・

 


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