「当業者」の「英訳語」について考える(3) | 特許翻訳 A to Z

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「当業者」の「英訳語」について考えるにあたって、まずは業界ではいったいなぜ「当業者」が議論の的になるのかということを示す例を、いくつかあげておきます。

以下、前述の「特許法における当業者について」という記事からの抜粋です。
便宜上、番号を付します。強調も、こちらで加えました。
 

① 条文上,「当業者」との文言はなく,特許法第29条第2項(進歩性)及び第36条第4項第1号(実施可能要件)における「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者」が「当業者」と呼ばれます。 (p.1583)

② 進歩性を判断するにあたって,その基準は高過ぎても低過ぎても,適切とはいえません。
 そこで法は,"通常の"知識を有する者として,想像上の人物(仮想上の人物)である当業者を想定し,進歩性を判断する際の基準としています1)。(p.1583)

③ 当業者とは,固定された概念ではなく,技術分野の相違,技術の進歩等に応じて変動し得る概念であるといえます。(p.1585)

④ 日本においては,進歩性における当業者と実施可能要件における当業者とは,表現上は同一であるが,その範囲に広狭があるとする説があります19)。(p.1585)

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注釈1) 吉藤幸朔著・熊谷健一郎補訂『特許法概説(第13版)』(有斐閣・1998) p.108
注釈19) 前掲注1『特許法概説(第13版)』 p.263。
注19については、東京高判昭37.5.29取消集昭36-37年225頁の濾波器事件についての説明がなされていますが、ここでは割愛します。


以上のとおり、当業者という「概念」が進歩性や実施可能要件の判断に影響するため、「何をどこまで含むのか」ということが、近年たびたび議論されている側面があります。

前回とりあげたAIPPIパリ総会の報告書にも、当業者について「各国の概念の相違」を問う内容になっているとした上で、
 (1) 当業者は一人の人なのか複数の人なのか
 (2) 当業者は現実の人なのか仮想の人なのか
 (3) 当業者の持つ能力はいかなるものなのか
という三段階に分けて考察した旨が記録されています。

このパリ総会での議論にあたっては、日本の例がよく引き合いに出され、日本での審査基準改定の経緯が諸外国の参考にされたそうです。

いずれにしろ、業界でのこうした議論は常に、法(条文)解釈と密接に関わっています。
 

ひるがえって「翻訳」では、たとえば「person having ordinary skill in the art」という英語表現に対して、実施可能要件判断の場面だから「発明の属する技術分野において通常の創作能力を発揮できる者」と訳すとか、進歩性判断の場面だから「発明の属する技術分野で通常の知識を有する者」と訳すとかいったことには、なりません。
one skilled in the artだから「業界人」、those skilled in the artは「当業者」といった訳し分けをすることも、ありません。
いかなる能力を持つことが想定されるかとか、現実か仮想かとかいうことも、ほぼ影響しません。

ある意味での専門用語として、「当業者」は「当業者」です。


これに関しては、某英語系の辞書で、person having ordinary skill in the artに「当該技術分野における通常の技術を有する人」、person skilled in the artに「当該技術に熟達した者」「その分野の技術に精通している人」という訳をあてたものがあります。

特許「以外の」分野であれば、こうした訳が成り立つ文脈もあるかもしれません。
あるいは特許でも、仮にいわゆる「当業者」を示しているわけではない文脈なら、こういう訳が成り立つ場面もあるかもしれません。
後者は、仮定自体が無意味ではないかというほど考えにくいとは思いますが、理論上は有り得ます。

ただ、少なくとも特許分野で「当業者」を示す文脈であるかぎり、英語をはじめとする外国語から日本語への翻訳時には、訳語は原則として「当業者」でしょう。
上記の②~④で示すように、条文や技術分野の相違、技術の進歩などによって「当業者」に想定される内容が異なることがある以上、表現を固定しておく必要があります。
(※実施可能要件や進歩性などの、それ自体を説明する文で「当業者」では逆に意味が通じない場合は除きます。)

単語(用語)そのものに実務現場での特許性判断が関連していますから、翻訳者が勝手に他の言い回しにするわけにはいかないのです。

一方、日本語から外国語への翻訳では、事情がいくぶん異なります。
次回は、英語の場合を例にして、このあたりについて検討します。


■関連記事 (連載です)
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