「当業者」の「英訳語」について考える | 特許翻訳 A to Z

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特許翻訳をしていると、「当業者」という表現に頻繁に出会います。
 

日英翻訳時の原文明細書や中間処理の書類では、「当業者」は常に「当業者」です。
かたや英日翻訳時の原文明細書では、「those skilled in the art」「a person skilled in the art」をはじめとして、複数の言い回しを見かけます。

辞書や用語集の類でも、事情は同じです。

 

例)
特許庁懇話会編 『特許実務用語和英辞典』 4-526-05204-3 
 person skilled in the art

弁理士・田中政浩 著『特許英語辞典』 978-4-87601-623-6
 ordinary skill in the art, person skilled in the art (PCT, EP), person having ordinary skill in the art (US), skilled person, skilled artisan

英辞郎
 one of ordinary skill in the art、one skilled in the art、person having ordinary skill in the art、person skilled in the art、skilled person、those having skill in the art、those in the art《特許》、those skilled in the art


上で「PCT, EP」や「US」とカッコ書きがなされているのは、たとえば欧州は審査基準の中に

person skilled in the artで定義があるといったような、国ごとの規定を念頭においたものと思われます。



翻訳の観点でいえば、当業者が「一人でもいれば成り立つと思われる文脈」と「複数の人を指すと思われる文脈」での単複を考えたことのある翻訳者は、おそらく多いでしょう。

日本での当業者は「発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者」(特許法第29条第2項)ですので、これを単純に「人(person)」ととらえれば、英訳時には都度当然に「単数?複数?」と検討することになります。

ところが実際には、そんなに単純ではありません。

単複を含めて、当業者とは何かという議論が、専門家の間で何度かなされてきました。
資料をさかのぼってみたところ、この類の議論が表だってなされるようになったのは、2001年頃からだと思われます。

一例をあげると、『パテント』誌の2001年5月号に、
 第8回知的所有権誌上研究発表会 研究発表の部 進歩性判断における当業者の範囲
という記事が掲載されています。

ここで著者は、当業者を「複数の技術知識を軽重の差をつけてバランスよく備える特定の一人」すなわち、単数で扱っていました。
ところが、この研究発表に対して疑問が投げかけられ、3か月後の8月号に「質疑応答の部」として再度、同じ話題が取り上げられています。

 

...特定の一人だけで複合分野の発明を完成させること自体が到底不可能と考えられる場合(一人では創作をなし得ない場合)もあるように思います。そのような場合でも,一分野の特定の一人を想定することが適切なのでしょうか。
2.また,最近改定された「特許・実用新案審査基準」には,進歩性判断の当業者について,「個人よりも,複数の技術分野からの『専門家からなるチーム』として考えた方が適切な場合もある」との見解が示されました。特許庁の担当官によれば,複合技術の分野を想定しているとのことでした。これは,穂積先生の見解と真っ向から対立するものと思われますが (以下略)

  『パテント』 2001年8月号 「進歩性判断における当業者の範囲」 p.15


そして著者による5月号記事の入稿が改定審査基準発行の直前だった旨が明記され、誌上で回答がなされています。

この8月号での回答の一段落目に「いわゆる当業者についてはこれまで余り論じられていない」とあるのですが、たしかに、90年代には国内での議論らしい議論の記録は見当たりません。
丁寧に探せば、どこかには存在するかもしれないとはいえ、あったとしてもせいぜいその程度です。
それが2001年以降、実務面と法律面の両方から、いくつか検討がなされています。

なかには、翻訳という観点から非常に興味深いものもありました。
those skilled in the artをはじめとする言い回しは、日本語の当業者に対する「英訳語」と言えるのか、ということにも関わってくるように思います。

次回以降、「当業者」に対する業界での議論と、この語に対応するいくつかの英語表現について、連載で順にとりあげます。

■関連記事 (連載です)
「当業者」の「英訳語」について考える ←現在地。
「当業者」の「英訳語」について考える(2)
「当業者」の「英訳語」について考える(3)

「当業者」の「英訳語」について考える(4)
「当業者」の「英訳語」について考える(5)
 


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