鮮明に覚えている、最後に母と会った時のこと。 | 相模野ナミ 父母の介護の記録2017年冬〜現在まで。記憶の記録。

相模野ナミ 父母の介護の記録2017年冬〜現在まで。記憶の記録。

宮城県在住だった両親の介護の記録です。
想像を超える事が多かったので、忘れないうちに記録しておこうと思いました。

神奈川県在住の56歳の主婦です。ドラックストアで登録販売者として16年勤務しています。
夫56歳、娘25歳、息子23歳、の4人家族です。

宮城県に行って3日目の最終日、

2017年12月16日。

母に逢いに行きました。

母は、10月14日から、療養病棟のある総合病院に入院していました。

宮城県は、寒い寒い曇り空でした。

白鳥の来ている川の橋を通って病院に行きます。

あの冬の日のあの風景は脳裏に焼き付いています。

白鳥の鳴き声だけが響いていて、静かで、とても寒くて、寂しくて、美しい景色。

無人駅を降りて、20分程歩くと、母の入院している総合病院です。

タクシーも呼べば来てくれるのですが、時間に余裕がない時以外は、この景色が好きで、いつも歩いていました。


母はこの日でだいたい入院してから2ヶ月目です。

食欲が全く無くなり、

自ら食べる事をしなくなってから、2ヶ月目です。

周りの方や、看護師さんからは、食べなくなってから、3ヶ月くらいで、命に関わる事がある、とアドバイスして頂いていました。

療養病棟の病室は2人部屋で、逢いに行くと母は、眠っていました。

入院してから母はずっと点滴をしていました。


そして、食べていないので、全体的にとても小さくなっていて、歩く事をしなくなったので、特に足はとてもか細くなっていました。


この時は、「お母さん」、と声をかけると、気づいて目を覚ましてくれました。


だけど、私をすぐには認識できなくて、でも、

知ってる顔だな、とわかったようでした。

「私、わかる?」って聞いたら

「わかるよー。ミキ(姉の名前)だっちゃー。」

「違うよー。ナミだよー。」

姉の名前が最初に浮かんだようでした。


姉は、母の、最初の子供。

我が子はみんな愛しいけど、最初の子は、特に、特に心に強くあるのだと思います。

私も、母なのでわかります。

だから、最初に姉の名前が出てきた事、私は悲しくも寂しくもなかったです。


「大丈夫?」と聞くと、母は、

「大丈夫だよ〜。私、泣かないもん」

って、言ったんです。


母は、若い時からなんでも、我慢してしまう性格で、でもだんだん話しを聞いていくと、愚痴をこぼしだして、我慢してるんだなぁ、ってわかることが多かった。私たち娘に話して、楽になっていたようだった。

入院の日々は毎日、沢山、我慢してるんだろうな。でも、話すことも出来ないから、辛いだろうな。


私は、自分の近況や、私の子供たち(母にとっては孫)の話しをして、


それから、私は、趣味で歌を歌っているので、

録音した自分の歌を、スマホを母の耳元に当てて聴いてもらいました。

母の目が驚いたようにパッと大きく開いて、とても熱心に歌を聴いてくれたんです。

そして、「上手だっちゃー」

と、言ってくれました。


そして、それが、私の歌を聴いてもらった最初で、最後でした。

母は、その翌月、ほんとに、食べれなくなってから3ヶ月で、天国にいったのです。



歌を聴いてもらって、少し母を撫でて、握手して、「じゃあ、また、くるね」

と言って帰る時、

母はずっと私を見ていました。

少し寂しそうに。

あの時の顔は鮮明に覚えています。


私は、この日が最後になるなんて、思っていなかったから、明るく手を振って別れた。


今思えば、母は、わかっていたのかもしれない。


歌を聴いてもらえて、ほんとに、ほんとに良かったと思いました。