サダーカのブログ

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このブログは、サダーカ代表やヨルダンに訪問したボランティア、学生の皆さんが、主にヨルダンでのシリア人の状況、彼らの想いを伝えるために綴るものです。サダーカの活動や日本でのイベント等についてはWebsiteをご覧下さい!

ダマスカスにいる友人とは普段他愛もないやり取りをすることも多いが、ここ最近は思いにふけることが多いようで「自由とは何か」というかなり重く真剣なメッセージのやり取りが続いた。彼女は「私は、自由という言葉がほとほと嫌いになった」と切り出した。

 

「自由」(Freedom)という言葉を、コーランや他のアラブ地域、イスラーム、あるいはヨーロッパの書物の中に探してみたんです。まずコーランの中に自由という文字を探してみたけど見つからなかった。その代わり、「自由な人」(Free human)という表現があり気になって色々調べてみました。

 

「自由」は、無制限な言葉です。ポジティブにもネガティブにもとることができるし、人間のエゴや物欲に繋がることもあります。一方で「自由な人」とは、他の人の所有物にならず、従うことを強要されることもありません。コーランでは、そのような状態になれない人を「奴隷状態」と呼びます。自分の行動や考えに責任を持つことができる「自由な人」になるには、「奴隷状態」を抜け出さなければなりません。

 

「自由な人」は定義できても、「自由」を定義することは私にとってはすごく難しい。

 

イスラームの教えは、信仰やキャリア、友人や生き方は自分で選ぶことができますが、他の人の信仰や考え方を侵害することは許していません。動物や植物を殺したり、地球という尊い惑星そのものに根付く大切な営みを変えることはもちろん、自分自身の身体を傷つけることも許していません。様々なルールが私たちの生活を制限しています。ですから、「自由」は厳しく制限されていることになります。

 

ところで、仏道についても色々と調べてみました。興味深いある本の概要にこんなことが書かれていました。「私たちは、自由を「制限からの自由」と誤解してしまう。しかし、これは極めて物質主義的な考え方です。仏道では、「自由」は施し(dana)=与えることであり、そして戒め(sila)=倫理=モラルとなり、そしてそうした生活を送る結果、心が動揺することのない状態(bhavana)を迎えることで、初めて本当の意味での「自由」や幸福を得られる。」

 

ある別の本にはこんな言葉もありました。気に入ったので紹介しますね。「自由を獲得するために闘った結果、その行動が自由を破壊し、更には心や精神をボロボロにした。」

 

何故、私がこの「自由」という言葉が嫌いなのかの前に、私は寧ろいったいこの言葉にどれほどの価値があるのかを知りたいのです。ある人が信じる「自由」のために闘って、多くの人たちの命を奪った。「自由」にはそれだけの価値があるのでしょうか。「自由」はシリアの戦争の発端にもなった言葉です。若者たちが路地に繰り出し「自由」を求めて叫びました。この言葉の代償は、多くの無実の人たちと子どもたちの命でしょう。

 

2011年当時、私はある友人とこんな会話をしたのをよく覚えています。

私:今、デモをしているようなときじゃないわ。

友人:何を言っているの。私たちは、自由のために闘っているのよ。

私:自由って何?

友人:いい仕事を見つけ、いい教育を受け、医療も満足して受けられる、そしてよりよい将来があることかな。

私:あなたは、それなりの教育を受け、今良い仕事に就いているじゃない。

友人:いいえ、もっといい仕事よ。それから、自分の信じる政党は自分で選びたいわ。うーん、イスラム教の強い国は嫌ね。

私:でも、貴方の希望は、独りよがりにも聞こえるわ。あなたは政治家でもないし、一国を正しい方向に導く方法だって知らない。

友人:そんなことはどうでもいいの。私たちは自由が欲しいのよ。

 

当時私は23歳だった。2019年の今年、多くの人が失業し、教育もヘルスケアも悪化し、そして貧困も激増した。「自由」は一体何をもたらしたのかと私は毎日自問自答してる。

(写真は友人から届いたシリア南部で実ったリンゴの木)