ふたつの『めくらやなぎと眠る女』をめぐって その2 | さむたいむ2

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次の『めくらやなぎと、眠る女』に入るまえに、1983年に書いた方の要点をまとめてみましょう。まず「僕」と「いとこ」が病院へいくためにバスに乗ります。そのバスは「僕」が高校へ通うために使った「28」の路線バスです。この「28」は特に意味はないのですが、村上春樹はなぜか数字にこだわっています。
 
まず「僕」と「いとこ」の歳の開きが「10」あること。「僕」は高校を卒業して東京へでて「ある用事」で故郷へもどります。「7」年ぶりということです。さらに「いとこ」は何故か何度も時間を聞きます。そのたびに「僕」は「何時何分」と正確に時を伝えます。
この「数字」にこだわるのはこの小説だけでなく村上作品には随所に目立つことに気づいた方も多いことでしょう。これは村上春樹の数字に対する固執というより物語を読者に引き付けるための「小道具」と私は見ています。推理小説によく使う手です。
 
さらにバスのなかの奇妙な雰囲気。「僕」と「いとこ」以外は皆老人ばかりで、それも山登りするかのような姿のひとばかりです。そのため「僕」は行き先を間違えたのではないかという不安に駆られます。これもまた作者の演出です。ミステリーがかったものを取り入れようとしています。ここにも村上が自分自身書く楽しみを見出していることが伺えます。読者は自ずとその虜になっていきます。『風の歌を聴け』から何作か書き上げた自信から読者をひきつける術を見つけたのでしょう。その為には自ら楽しんで書くということです。
 
そして「いとこ」が聴覚障害の診察を受けるために「僕」は待ち時間を病院の食堂で過ごします。お父さんを見舞いに来たふたりの女の子とお母さんのいう何気ない家族の情景を見て「僕」は高校時代、友人とふたりで他のある病院へその友人のガールフレンドを見舞いにいったことを思い出します。その友人のガールフレンドは胸のひとつの骨が内側に向いているため、それを治す手術を受けました。そして入院中に書いたという長い詩を表現するために紙ナプキンにボールペンで絵を描いて説明します。その女の子は青いパジャマを着ていて胸の白い肌が見えました。「僕」のなかではブラジャーを着けていない彼女の白い肌と矯正した1本の白い骨が見えたようで思わず眼を閉じてしまいます。この表現は村上春樹の得意とすることで「僕」が何処か彼女に繋がるものを示唆しています。しかし友人とそのガールフレンドはどこかしっくりしていない。彼女の真剣な話を茶化しています。そしてその後、彼は死んでしまいます。病気か事故死か自殺か、その詳細は分かりませんが、彼女との破局が重なっていることは間違いありません。
 
彼女が書いた長い詩とはこの「めくらやなぎと眠る女」であって、めくらやなぎの花粉を小さな蠅が女が寝ている間に耳のなかに進入してその女を眠らせます。そしてその花粉は内部から肉を食い尽くすという怖ろしい話です。彼女から感想を求められて「僕」は「とても面白いよ」「つまり情景としてさ」と答えます。それに引き換え友人は「そういう残酷な話が君の学校のシスターの喜ばれるとはどうしても思えない」といい「むしゃむしゃ」とやはりふざけています。夢見る少女と現実的な少年の対比ともとれる話です。しっくりいかないのも当然のことでしょう。そして「いとこ」の右耳の聴こえない状況にこの「めくらやなぎ」の話が繋がっていくのです。
 
村上春樹はミステリー小説を書こうとしていたわけではありません。25歳の「僕」は「いとこ」を見て7年前の自分を思い返しているのです。友人の死、そのものの詳細は書いていないものの、そのために高校を卒業し、東京へ出ていったことは確かです。彼が上京した理由はその友人の死に何か関係があるのではないかと読者はやむなく想像してしまいます。こえもまた村上春樹の常套手段で『ノルウェイの森』まで続く幾つかの小説に使われています。
 
「めくらやなぎ」の詩は少女の創作です。そんな詩を書く子と付き合うの大変でしょう。しかしその友人の死は決してそれだけが原因ではない筈です。この小説で「いとこ」の耳が聴こえない辛さを表現している部分があります。それはいろいろな医者に掛っても原因不明といわれ、そのことで「いとこ」がその「不自由さ」「痛さ」を理解してもらえないということを「僕」は気がつきます。
 
「いとこ」は言います。
 
「それに恐いんだよ、本当はね。痛いのが嫌なんだ。本当の痛みより、痛みを想像すること方がつらいんだよ。そういうのわかる?」と「僕」に伝えます。「もちろんわかるよ」「それが普通の人間だもの」と答えるのです。
 
さらに「痛みいうのはいちばん個人的な次元のものだからね」と「僕」が答えると「いとこ」は「これまでいちばん痛かったのって、どんなこと?」とさらに聞き返してきます。「思い出せないよ」「長く生きていれば痛いことってそれなりにあるさ」というと「いとこ」は「つまりこれから先、何度も何度もいろんな種類の痛みを体験しなくちゃならないのかと思うさ」と落胆している姿を見て「僕」は彼が何だか「盲人」のように見えてしまったのです。
 
どうやらここに主題がありそうです。何も耳の障害だけでなく若さのもつ「痛み」を考えなければならないでしょう。それは25歳になった「僕」だけでなく私たち読者も分かりあえるのです。その「痛み」は次々と形を変えてやってきます。しかし多くの人はそれをどうにかやり過ごせます。だが一部のひとはその「痛み」に耐えかねて死を選ぶことがあるでしょう。「いとこ」もその岐路に立っています。そして「僕」にもその「めるやらなぎ」の花粉を運ぶ小さな蠅の羽根音が聞こえるような気がしました。しかしその羽音はあまりに小さく聞こえ辛いものです。
 
ようやく次の『めくらやなぎと、眠る女』に辿りつけました。しかし例のごとく、長すぎたため次回へ持ち越しさせて下さい。                        (つづく)