正義のデモ行進

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私はパクチーが嫌い。





嫌いな食べ物はありますか?

と聞かれたときには答えるけど




 



 

普段パクチーについて

語ることも考えることもない。


 

 

でも、私の世界に確実に

ぱくちーというものは存在していて

 

 

確かに存在してるんだ。



 

 

ぱくちーはぱくちーとして

毅然と存在してる。

 

 


 

だからね、たまーに私の世界に登場することもあるわけで。

 

 


そんなときは

 

 

うっかり料理に入って

目の前に出されちゃったとかさ



 

そんな場合は

その料理を口にしないだけ。

以上まる。

よけりゃいい。

 



 

当たりまえだけど

『わたしが』好みでないだけなので

世界から自分の嫌いなぱくちーの存在が

消えればいいなんてみじんも思わない。



 

 

 

この世界からぱくちー消えろ!

ぱくちー消えろ!

なんて不毛なことはしない。

 

 

 

わたしは、私が好きな食べ物を食べりゃいい。

以上まる。の話

 

 



 

これが食べ物だと非常にわかりやすいんだけど






事例が変わると、世の中の多くの人が

この奇妙なことをやってたりする。



 

 

 

自分が間違っていると思うものを正そうとしたり

自分の嫌いなものをこの世界から消そうとしたり

 



そんな望まないものにフォーカスし

エネルギーを注ぎ

そして一生懸命その創造に命を使う

 

 

 



 

例えば、

私は一神教の考えが好みじゃない。




 

一人一人が創造の神である

という考えを持ってるから。




 

このケース、

私の視点からでいくと

 

 

一神教の宗教は間違いで

誰もが神であるという考えが正しい

 



となりがちで

 

 

 

そうすると

間違ってるものを正さないといけなくなるから


 



一神教の宗教は間違っている!

と声を上げ始めることになる。



 



それは違う!

それは違う!

それは間違ってる!

 

こちらの方が正しい!

 

 

 

この、なにかを間違ってる!と雄叫びをあげるとき

 

人は大概『怒り』のエネルギーを原動力にしているので、結構創造の力が強い。

 

 

 

それに伴って

自分の世界にその”間違ったもの”を

どんどん創造していくことになる。


 

 

 

それはまるでプラカードを持って

⚪︎⚪︎反対!と正義のデモ行進をしているような状態だね。

 

 

 

 

 

一神教という考えの宗教は

私の世界に確かに存在しています。

その存在を見て、聞いて、知って

どう思ったか。




私はそれが好みじゃないと思った。


 

 



でもそれは『私が』好きじゃないだけ。


 


 

 

私は一人一人が創造主であるという

考えが好き。

 




こっちだって同じく

ただ『私が』好きなだけ。


 

 

 




自分と違う視点のものを

自分の嫌いなものを

間違ってるから世界に存在してることが

許せない!

というエネルギーの使い方。

 


 

 

非常に疲弊するよねw


 

 

 

 

結婚式の引き出物のカタログギフトだと

思ってみて。







 


自分の苦手なもの

嫌いなもの

好みじゃないもの

たくさんカタログに載ってるの。


 

 

いろんなものが目に入る。

視界に飛び込んでくる。


 



 

 

でもそれを見て

 

 

自分はなにが良いか

を選ぶだけ。

 

 

 

他のものがカタログ上に

存在してても良いよね?


 

 

 

自分の好みじゃないからって

カタログになんでこんなものが

載ってるんだ!なんて

それにフォーカスしないはず。

 

 





・・・・・




 

 

自分が間違ってると思う

”それ”が世界に存在することを許可してみない?


 



 

そんなものに出くわしたときは

『自分はこういうのが良いな、好きだな』

という自分のデータを抽出するだけにとどめてみない?



 

 

 

嫌いなものをみて好きなものを知る

望まないものをみて望むものを知る

 

 

 

それだけなんだ。

 

 



 

嫌いなものや

望まないものについて

間違ってる!

おかしい!

と叫び続ける

正義のデモ行進エネルギーの使い方をやめていこう

 

 

 


 

この会社はここがおかしい!

この業界はこれが間違ってる!

 

 

だから、こうしないと。

 

 

こーゆうのよくやりがちだよね。

 

 

 


望むものと望まないものと

真逆のエネルギーを2方向へ向け続けることは

自分の中に分離をうむ

 

 

自分の内側のこの闘いが

外側へと現れる。

 

 

正義のデモ行進のエネルギーを使う人は

いつも周りに敵がいて”間違い”と闘い続けてる

ケースが多い



 

 


 

嫌いも好きも

間違いも正しいも

望むも望まないも

 

 

この世界には全て在るんだ。

 

全部が必要で存在してる。

 

 

 

だからいつだって『わたしは』これがいい。

の選択をしていくだけ。

 

 

 










 

最後に余談だけど

 

 



 

日本の教育がなかなか変わらない原因の一つに

私はこのエネルギーの使い方があると読んでいて

 

 


 

日本の教育は間違ってる!

これがおかしい!

あれが間違ってる!

 



だから

 

 

もっと、こうしていかないと!

って、こと”教育”に関して特になりがちな気がしてて。





 



でね、



 

......本当に間違ってるのかな




と思うのよ。








 

 

今まで教育に携わり情熱を向けてきた人たちが

作り上げた歴史がある

それはその時代には確かに必要だったはず。

 

 



それを間違いだ間違いだ

 


という、エネルギーではなく

 



 

現状をしっかり捉えた上で

これからこうしたいよね!

こんなのよくない?

これがいいんじゃない?

 



 

なんて、

望むものだけにエネルギーを

注いで

 

 

エネルギーを一方向にまっすぐに。

 

 

 

この創造の仕方をね。









みんながしたら

平和になるなーと思うんだ。









あ、「わたしは」ぶちゅー