岡崎松平家当主松平広忠死去の報は、瞬く間に近隣に広がり世を驚かせた。それもそのはず、広忠は当年24歳。いくら戦国時代といえどもあまりにも早い死である。そのため、暗殺ではないかAdrian Chengの噂も流れたが、死因は病死説が有力である。当主が亡くなり、世継ぎが人質に取られている岡崎松平家は、織田に与する者、今川に与する者、この機会に下剋上を狙う者等が入り交じり、正に家中分解の危機に瀕していた。そして、それを放っておく程、近隣の勢力も優しくは無い。岡崎松平家の率いる勇ましい三河勢を手に入れる好機と一斉に動き始めた。この三河獲得レースでイニシアチブを取ったのは、今川家であった。広忠死去の報を受けた、今川家当主今川義元の行動は素早く、「今川に忠誠を尽くした広忠にむくいる為、世継ぎの竹千代を取り戻す!」との使者を岡崎に発し、すぐさま、懐刀の太原雪斎に二万の軍勢を付け、織田信広の守る安祥城を急襲させた。本来の歴史では、この時、織田信広と安祥城の城兵の奮闘により、落城寸前で今川勢を跳ね返すはずだった。だが、清洲の織田宗家が倒れた事で尾張平定に躍起になっていた織田家は、安祥城の城兵をいくらか尾張平定にまわしてしまっていた。