彼が消えて行った木々の向こう側を少しの間眺めていた。
ブーブー…、ふと鞄の中からスマホの震える音がして、ポケットに手を突っ込む。
ディスプレイにはさっきまで話をしていた顔も思い浮かばないあいつの名前が表示されていて。
それを見て、なにも言わずに電話を切ってしまったことを思い出した。
「おーまーえー、何も言わずに切るんじゃねぇよ」
「わりぃ、ちょうどバス来ちゃって」
「ったく、それならそうと言えばいいだろー」
さすがに初めて会った男に目を奪われて…なんて言えるはずもなく。
「それはそうと潤、今夜飯行くよな?」
そして俺はその問いかけに二つ返事でOKと返事をした。
***
場所は料理も美味くて、値段もリーズナブルな居酒屋。
大学の近くにこんな穴場があるなんて知らなかった。
こういう思いがけない発見があるのも、色んな奴とつるむ特権だと言える。
目の前にはビールに唐揚げ、フライドポテトにペペロンチーノとちりめんじゃこの和風ピザ。
オーソドックスではあるけれど、とにかく美味そうな飯と酒がずらっと並んでる。
で、それを囲む奴らの顔ぶれは…。
うん、ほとんど知らない奴らばっか。
まあ、ギリ見たことあるかなぁぐらいのやつはいるけど、正直名前までは分からない。
とりあえず、呼び合ってる名前を聞いてなんとか記憶と紐付けようとする。
「なあなあ、聞いてくれよ。バイト先の子がすげぇいい子でさぁ。なんとかお近づきになりたいんだけど、これがまたなかなか上手くいかなくて。頼む潤っ!なんか秘訣とかあったら教えてくんない?」
「秘訣ねぇ…、」
そんなマジでどうでもいいようなくだらない話で盛り上がる中、
「あ!そーいや俺さぁ、山本美沙と今付き合ってんだけど、覚えてる?潤…ちょっと前に付き合ってたんだよな?」
隣に座っていた奴がそう口にした。
山本美沙。
確かに三ヶ月前ぐらいまで付き合ってた子の名前だ。
今さらその名前を聞いたところで何の感情も沸かないけれど。
「覚えてるけど…。そっか、今おまえと付き合ってんだ」
「そーなんだよ。で美沙がさぁ潤のこと色々と言ってて、俺超ウケたんだけど」
その言葉に今までそれぞれで盛り上がっていた奴らまでもが、
「なになに?聞かせて!その話超興味ある!」
なんて急に身を乗り出してきた。
酒の席だと別に興味のない話を聞く羽目になることは多々あるけど、自分の事となるとちょっと…いや…、だいぶダルい。
しかもこの感じだと、多分良い話ではないだろうなんて嫌な予感までする。
「潤さぁーおまえ超がつくぐらい重いらしいじゃん?」
案外女々しいのね、なんてそいつがほくそ笑む顔が気持ち悪い。
「は?俺が?」
んなまさか。
聞けばそいつは美沙から聞いたという話をなにやら自慢気に話し始めた。
なんでも俺が、逐一居場所を確認するだの、スマホを勝手に見るだの、友達と遊ばせてくれないだの。
出るわ出るわ、世間一般的に言う束縛の類。
おいおい。
それ全部、俺がやってたことじゃなくて、俺がされてたことじゃん。
まさかの立場逆転状態に、開いた口が塞がらないとはこういうことだと妙に納得してみたりして。
それなのになんでこんなに冷静でいられるかって?
いやだってさ、今俺がここでその話を否定したところで今日のこのメンツの中に、俺はそんな奴じゃない…なんて庇ってくれるような奴がいるとも思えない。
じゃあなんて答えるのが正解なのかって。
答えはシンプルで至極簡単なこと。
「あー…確かにそうだったかも。俺って付き合うとさ、まじ重いんだよね」
そう適当に話を合わせて、目の前のビールを喉の奥に流し込んだ。
周りからは、うわーっ…なんて悲鳴が上がっている。
別に構わないよ。
”松元潤はソクバッキーらしい”なんて風評流されたって。
変にムキになってこの場がしらけんのも面倒だし、その悪い噂で俺に言い寄ってくる女が少しでも減ってくれればそれはそれで楽だし。
そもそも、ちょうど女に嫌気がさしていたんだ。
大抵の女は、やれ他の女と喋るなだの、スマホが鳴れば誰だ誰だってうるさいし、その相手が女だったら浮気だなんて泣けばいいと思ってて。
それにだ。
だいたいヤりたいからって機嫌をとらなくちゃいけないなんてのがまた嫌だ。
男って本当に面倒な役割だと思う。
ヤりたいから優しくして、ヤりたいからプレゼントを贈って、ヤりたいから美味い飯を食わせる。
髪を切ったり、ネイルを変えれば即気付いてやれないとポイントを下げられる。
いちいち顔色をうかがっていなければ、機嫌を損ねてヤらしてもらえないなんてどんだけだ。
色んなことが沸々と思い返されて、あっという間に握っていたジョッキの中身は空になっていた。
おかわりを頼もうと店員を呼ぼうとしたその時、
「そんな女、別れたコイツの方が正解だと思うわ」
そう頭上から声がしてテーブルの上に五千円札を置く大きめの手が視界に入った。
あ、この腕時計。
それにこの香り、どっかで。
そう思って見上げるも顎しか見えない。
えっと…誰だっけこいつ。
………。
あーっ!ここまで出かかってんのに!
「おい、いくぞ」
「え、ちょっ、」
訳も分からないまま、誰かも分からないそいつに腕を担がれて。
そのまま引っ張られるようにして部屋から担ぎ出された。
「おい、潤どこ行くんだよっ!」
仲間に呼ばれているのに、俺を引っ張るその手の主はお構いなし。
あっという間に店から連れ出されそうになって、俺は慌てて靴箱から自分の靴を掴んだ。
「ちょっと!おまえ誰だよ!何なんだよ!」
やっと掴まれていた腕を解かれ、靴下のままだった俺はアスファルトの上で靴に足を突っ込みながらその後姿を睨みつける。
なんだか見覚えのあるチェックのシャツに黒のリュック。
ゆっくりこちらを振り返るその姿にもしかしてって。
胸の鼓動がドキドキと早まって。
「いや、話盗み聞きするつもりなんかなかったんだけど勝手に聞こえてきちゃって。で、聞いてるうちにイライラしてきて…。おまえもおまえでヘラヘラ笑ってるから益々腹立って…」
そして”ごめん”なんて頭をポリポリと搔きながら呟く、尖った赤い唇。
やっぱりこの人。
「おまえさぁ、もうちょっと友達選べば?」
目の前の人はやっぱり八の字眉で、どこか心配そうな複雑な表情で俺を見る。
「じゃ、またな」
それからあっさり、踵を返して駅の方角に向かって歩き始めるから、
「あのっ!」
俺は思わず声を荒らげてその人のことを呼び止めていた。
俺のために同じ大学かもしれないやつらの前で怒ってくれて、名前も知らないような俺のことをあの場から引っ張り出してくれて。
こんな赤の他人な俺のことを本気で心配してくれていて。
「なに?」
「えっと、その……、ああっ」
慌てて尻のポケットから財布を取り出して、そこから五千円札を抜き取って彼へと差し出した。
「金!さっき払ってくれただろっ」
「あぁ、そういえばそうだった…」
頭にきてすっかり忘れてた、なんてそう言ったその人が口角を上げた顔がすげぇカッコよくて。
「名前…、」
「ん?」
「名前聞いてもいい?」
「俺の?」
その問いにコクリと頷くと、
「佐倉井…、翔」
その人はそう言って。
「何年?」
「三年」
友達とか浅くでいいんだって、そう思ってたんだ。
名前を聞いても顔が思い浮かばないぐらいの関係が楽だって。
今まで本当に色んないざこざに巻き込まれて、しんどかったんだ。
嫌だった。
面倒くさくて。
でも、そんなフリ一切見せずに生きてきた。
だけど俺は。
この人の顔も名前も忘れたくなくて。
これで終わりになんか…したくなくて。
「佐倉井翔……、翔さん」
頭の中にインプットするみたいに、何度も何度もその名前を唱えて。
「じゃあな。ニ年生の松元くん」
「え?あ…、」
なんで俺の名前知ってんの?
なんて聞く暇もなく、そのまま彼は駅へと続く道を歩いていく。
俺はそんな後ろ姿を人混みの中に消えるまでずっとずっと見ていた。
翔さん。
また、逢える…かな。
また、逢いたいな。
また、きっと逢える…よな。