長い事、教壇に立つ仕事をしていると、マヒしている感覚もある。
相手が専門学校生なら、専門学校生に適した教え方があり、相手が社会人なら、その教養に応じて適した教え方がある。
同じで良い訳が無い。
しかし、こどもに教えるという事を生業としていない私は、先日、マヒしてた感覚を思いだした。
公園にいたら、
小学4年生から質問された。
「足が速くなるにはどうしたらいいの?」
さあ、考えた。
私が普段、アスリートや学生に教えている事だ。得意分野だ。
バイオメカニクス、運動生理学、機能解剖学、トレーニング理論・・・・
速く走るための方法は、あらゆる角度から、いつも教えている事である。
トレーナー養成の学校で、学生にいつも言っている事がある。
「理解しにくい、分かりにくい本当の事を言うより、少々正しくなくても、分かりやすい事を言う方が良い指導である。正しい事は、その後に徐々に言え。」
相手は小学生。
詳しく、正しい事を言ってもおそらく理解出来ないだろう。
いや、どこまでを正しく理解できるかさえ未知数だ。
そして、こんな会話になった
「短い距離を速く走りたいの?長い距離を速く走りたいの?」
そうしたら、
「・・・え?」という反応。
なるほど、長距離と短距離という認識も無いという事か・・・
そしたら質問を変えなければ。
「どうして速くなりたいの?
そしたら、
「サッカーで速く走りたいから」という答え。
また勉強になった。
こどもなら、こういう順序の質問の方が良いという事か。
そして、しばし言葉を選んでからこう答えた。
「20mくらいを思い切り走ると速くなるよ!」
おそらく、こどもに瞬発力と持久力との性質の違いは理解できないだろう。
そして、エネルギー産生の事も理解できないだろう。
トレーニングの特異性の話も理解できないだろう。
ましてや、体の使い方の話など、とうてい理解できないだろう。
ここでスピードトレーニングの話をしても、根っこの部分では通用しないだろう。
これらの事から考えれば、
「20mくらいを思い切り速く走れ」という指導は、あまりにも正しくない情報と言わざるを得ない。
しかし、その子の反応は興味深かった。
「20mってどのくらい?」
「あの木からあの木の間くらいだよ」
そう言ったら、もうダッシュを始めた。
1本走ったら、こっちを見て、
「何回やればいいの?」
「あと3回、もっと思い切り走ってみな」
そこで、ひとつアドバイスする。
「次はもっと肘を曲げて腕を振ってみな」
「次はちょっと遅くてもいいから、体を起こして走ってみな」
「次は・・・
という感じで、その子は約15本走った。
は~、は~言いながら、満足そうだった。
もしもここで、もっと正しい事を順序だてて言っていたら、おそらくこの子は、「走る」という行為に対して意欲的に取り組むという気持ちが薄くなっていたのではないかと思う。
たかが、公園でのちょっとした会話での事だ。
運動教室に参加しに来たわけではないのだ。
ここでガッチリ指導するというのは、指導者のエゴの押しつけにすぎない。
論理的に教える事がクセになってしまっていると、本能に呼び掛ける指導ができなくなってしまう。
こどもに教えると、その感覚がマヒしていた自分に気づく。
理性の前に本能がある。
本能に響く指導をしなければ、それは指導者のただの自己満足になってしまうと思うのである。
その子は、結局、
「もっと教えて、もっと教えて!」とせがんできた。
「また今度ね!それまで、今日と同じ練習をしてて、速くなったら次を教えてあげるね」
と言って別れた。
こどもから学ぶ事は、やはり大きい。