両親が離婚して母親に預けられた私はまず、
母へのお手伝いの増加が加速してゆきます。
それまでも手伝っていましたが、さらに。
家の買い物、店の買い出し、
さらには郵便局から銀行まで、、
そうそう、店前には自動販売機が置かれ
そこへ、ジュースの補充もしていたんだった。
下校後はそのようなことが待っていました。
ある時、粉の洗濯洗剤が超絶コンパクトになり、
私以上に喜んだ人がいたのかどうか、
ずっと気になっていたくらいです。
あれは、重たかった、、![]()
平日は相変わらず、夜食はお金をもらい外食、
その後は一人で帰宅することが日常でした。
それからまたある日、風邪をこじらせた私は
肺炎で入院をしました。
いつも我慢することが当たり前だった私は
母に苦しいことを訴えづらかったのを覚えています。
これが、人生で死に目にあった三度目です。
一ヶ月ほど入院しました。
集中治療室で管だらけになり、
苦しかったことだけ 記憶にあります。
そこから死なずに回復、退院できたあとはまた、
いつものような生活が続きます。
ただ、日曜だけは 違いました。
母の店が休みなのもあり、
母は私を外の世界へ連れて行きます。
そんな時はいつも、
店のお客さんか、他の誰かが一緒です。
高級店や高級ホテルに連れて行かれ、
「社交界へ出ても恥ずかしくないように」
などと 様々なマナーを学ぶよう言われました。
大人になったら私を、アラブの国王あたりへ
嫁に出したかったようです。(オイオイ
)
本当によく、そう話していました。
それには、私はブスなので
「大きくなったら整形してあげるね」
と、何度か言われたこともあります。
ある日私は、帝国ホテルの最上階の
「レインボーラウンジ」へ連れて行かれ、
「今日から、ちゃんとしたお酒を覚えなさい」
と、教えられたのでした。
コーラが好きだった私に母は、
カクテル「キューバリバー」を推しました。
それまで母の店で、
ビールや日本酒を味見したことはありましたが
「ちゃんとした一杯」をいただいたのは
これが初めてでした。
8歳の私には、いろんなことが起こったので
この後はまた次に記します。
