この記事、三年前に投稿しようと思ったものですが、大きすぎるテーマにビビってしまい見送り、今になって投稿することに。

以下、強引な解釈が展開されますので、まともに相手にしないのが得策です。

 

以下、

『鬼滅の刃』について、

思いっきりネタバレします。

この記事を投稿する現在、『柱稽古編』までしか発表されていないアニメ版のみご覧の方をはじめ、原作を最後までお読みでない方は、この先を決して読んではいけません。

 

また、ハードボイルドミステリー作家、深町秋生さんの警察小説にしてバイオレンスアクション小説であり、同時にヒューマンドラマとしての要素も濃厚な『鬼哭の銃弾』についても、テーマにおいて『鬼滅の刃』と共通していると個人的に認識しているため、この記事の後半でネタバレします。

 

 

 

       『鬼滅の刃』に見た家父長制の恐怖

 

「『鬼滅の刃』は家父長制を肯定した、男尊女卑的な作品だ」という主張がネットで話題になったそうですが、私の解釈はそれとは真逆です。

むしろ、家父長制の恐ろしさを読者に再認識させ、主人公をはじめとした善玉の登場人物たちが悪玉を駆逐することで、“家父長制の克服”を象徴していると解釈しました。

 

「この作品、家父長制の恐ろしさを描いてるのでは?」と、私が最初に思ったのは、

主人公の竈炭治郎が、盟友になりつつある嘴平伊之助、および我妻善逸とともに、那田蜘蛛山(なたぐもやま)に乗り込むくだりでした。

炭治郎たちの前に立ちはだかる累(るい)という敵キャラ、やたらと「家族の絆」にこだわり、さらには家族間の序列を維持することに腐心してます。

家族間の序列を維持するために担保とするのは、母や姉といった女性家族に、暴力による恐怖心を植えつけること。

 

累というキャラの外見は少年であり、さらには彼が帰属する擬似家族内におけるポジションが「息子」であり「弟」ではありますが、擬似家族内において最も強い武力を備えていることで、「母」や「姉」、さらには「父親」にまで命令をくだせるポジションに。

現実世界においても、父親の肉体が加齢により衰えるのと反比例し、青年期にさしかかった息子の肉体的強さがピークを迎えたとき、家庭内における父親と息子の力関係が拮抗し、やがては逆転することはありますし、

暴力による威嚇力が家父長制を維持する手段とされている家庭内では、DVを行使する者が父親から息子へと入れ替わることがあり得ます。

累はそのような現象を象徴しているキャラであると、私は解釈しました。

 

もっとも家父長制を支える「父親の威厳」は、暴力による威嚇力だけでなく、経済力までもが根拠になることも。

『鬼滅の刃』でいえば、「遊郭編」に登場する堕姫(だき)というキャラクターが、幼い女子を虐待することを正当化するために「わたしがおまえたちを食わせてやってる」みたいなことを言います。

その考えに真正面から異議を唱える我妻善逸がやたらとカッコよく見えたのは、現実世界の家父長制とリンクしているからに違いないと、私は勝手に思いこみました。

堕姫は女性キャラであり、家父長制における権力者、つまり父親の象徴ではないようにも思えますが、少年であり「息子」である累同様、家父長制の副作用を象徴していると思えなくもないのでは? と思いました(強引すぎる解釈かもですが、この記事全体が牽強付会な解釈で成り立っていることを自覚しております)。

 

 

さらにはラスボスである鬼舞辻無惨によるパワハラ会議。

「私は決して間違えない」というセリフとともにシモベたちをに凄惨な制裁をくわえるシーンに、家父長制の究極形態を見せられた気がします。

肉体の衰えを知らず、永遠の命を持つ鬼舞辻無惨は、二十世紀までの家父長制とは違う、二十一世紀型の家父長制を象徴しているようにも思えます。

 

というのは……

今の時代、加齢による肉体的衰えを超克した者は少なくないと認識しているのは、私だけではないはずです。

ボクサーのバーナード・ホプキンスが五十歳間近までWBAとIBFのライトヘビー級統一世界チャンピオンだったり、

トム・クルーズが六十代にして命知らずなスタントを自らこなしたり、

同じく六十代の空手有段者がクマに襲われ、目つぶし攻撃で撃退したり、

八十六歳の男性が拳銃を入手し、人質をとって郵便局に篭城したり、

九十代の男性が八十キロ級のイノシシに襲われ、身を守るためクワで応戦して殺したり、

など、

各事例における行為の正邪は様々ですが、肉体的な強靭さを維持する高齢者が世界規模で増えているのは間違いないと思われます。

 

同じく家父長制をテーマにした創作物でも、二十世紀に発表された作品群の登場人物たちは、加齢をはじめとした脆弱化から逃れることができなかったという印象を個人的にはいだいてます。

スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』では、ジャック・ニコルソン演じるDV親父が経済力や作家としての能力のなさゆえに、「俺は、夫としても父親としても尊敬に値しないのではないか」と劣等感をいだいていた。

先日逝去された梁石日(ヤン・ソギル)さんの『血と骨』の主人公、金俊平(キム・ジュンピョン)は加齢による肉体的衰えから、かつて虐待した息子にすがるようになる。

など。

 

『シャイニング』も『血と骨』も今なお色褪せない傑作であると思っていますが、「暴力的な父親の恐怖」に限界を設定することが、発表された時代、二十世紀の現実世界を反映したリアリティだったのでしょう。

 

『鬼滅の刃』は私個人にとって、『シャイニング』や『血と骨』と同様のテーマがこめられつつ、大正時代を舞台にしていながら、二十一世紀における家父長制のリアリティをともなった作品です(「私個人にとって」と明記したのは、異論のある方とここで議論するつもりがないことの意思表示を兼ねてます)。

 

『鬼滅の刃』で描かれる“家父長制の恐怖” に私が現代的なリアリティをますます感じるのは、「DV親父によるDV親父としてのポジション維持の長期化、加齢による限界の克服」を描いているだけでなく、さらに二つの点において現実世界を反映していると思われるためです。

 

ひとつは、暴君親父としての振る舞いがドメスティックにとどまらず、世間にまで向けられる現象が描かれているように思えたこと。

電車やバスのなか、泣いている赤ちゃんを抱っこした他人である母親に「黙らせろ!」などと怒鳴りつける高齢男性の映像を各種SNSで見かけることが少なくないような気がします。

『鬼滅の刃』でいえば、鬼舞辻無惨が太陽を克服し、夜だけでなく日中も外界で活動できるようになることを最終目標としているのが、「暴君として活動できるのが夜のあいだに限られるなんて、納得できない! 暴君としての俺の行動を世間は認めろ!」と主張しているようにも思えます(それと関連しているのか分かりませんが、クライマックスにおける鬼殺隊との総力戦のさなか、「私たち鬼に身内を殺されても、自然災害だと思えばいいじゃないか。それなのにここまで私たち鬼を憎む鬼殺隊は異常者集団だ」と逆ギレするセリフもありました)。

 

 

もうひとつは、DV親父に虐待を受けた子どもたちがDV親父に抵抗する過程において、やがては自らもDV親父と化してしまう現象が描かれているように思えたこと。

先述した“累”のように「息子」としてのポジションのまま、生まれ育った家庭内における優位性を父親から「クーデターによって強奪」する現象とともに、

父親からDVを受けて育った息子が結婚し、生まれ育った家庭とは別に自らの家庭を築いた後、DV親父としての地位を「世襲」したかのように、妻や子どもに対しDVを振るうようになる現象も、現実世界では少なくないと思ってます。

 

『鬼滅の刃』でいえば、炭治郎の妹である禰豆子にとって、鬼舞辻無惨は鬼としての命を吹き込んだという意味で、第二の父親ともいえる存在かも。

炭治郎から見れば、実の妹である禰豆子が、血のつながりがないながらも「妹」と呼ぶ女子へと変化したととらえることもできるのではないかと、私は強引に解釈しました。

現実世界に近づけていえば、禰豆子は継父の連れ子、つまり血のつながりのない妹へと変化してしまったのであり、鬼舞辻無惨は炭治郎の継父にあたる存在といえるかも。

継父が家庭内でDVの振るい手として君臨していれば、それはそれで家父長制の一形態にほかならないはず。

鬼舞辻無惨との戦いの果てに、禰豆子は人間にもどったものの、炭治郎自身は鬼になってしまう。

鬼舞辻無惨から、鬼のボスとしての地位を「世襲」させられるという形で。

 

 

著者でいらっしゃる吾峠呼世晴さんは、炭治郎が禰豆子やカナヲ、伊之助らの尽力のおかげで人間にもどされることはもちろん、

物理的な強さを人間の価値を測る唯一の尺度にしていた、つまりは家父長制と親和性の高い登場人物だった伊之助が、顔もおぼえていない母親、さらには胡蝶しのぶを弔うべく、栗花落カナヲと力を合わせ上弦の弐を撃退し、最終的には女性への敬意をいだくまでに成長する後日談まで丁寧に描くことで、

心地よい読後感をもたらしてくださいました。

 

繰り返しますが、以上はすべて私個人による牽強付会な解釈にすぎず、ほかの人に押しつけるつもりはまったくありません。

著者でいらっしゃる吾峠呼世晴さんが実際にはどのようなテーマを作品にこめられたのか、いち読者にすぎない私に分かるはずがありませんし。

(こう明言してもなお、「あんたの解釈はあんた個人の主観に過ぎません」といったコメントが寄せられたことが、過去に投稿した映画レビューの記事ではありました)。

 

 

 

 

 

       『鬼哭の銃弾』に見る家父長制への嫌悪感

 

映画『渇き。』や『ヘルドッグス』の原作者である深町秋生さんの『鬼哭の銃弾』が先月文庫化されましたが、私が初めて読んだのは三年ほど前。

読みはじめてしばらくして思ったのは、「この本にサブタイトルをつけるとしたら、『もしも、「血と骨」の主人公である金俊平が、現代社会において定年退職した元刑事だったら』だな」というもの。

 

といっても、主人公は定年退職した元刑事ではなく、その息子である現職の刑事のほう。

主人公である現職刑事、日向直幸の自宅近辺で拳銃発砲事件が起き、現場に残された銃弾が未解決の凶悪事件で用いられたのと同一の拳銃から発砲されたものであると判明する。

それを機に未解決事件の再捜査が大々的に行われることになり、直幸もその捜査にくわわることになるが、再捜査の契機となる発砲事件に元刑事である実父、日向繁が関わっていることが明らかになる。

直幸は父親への憎悪を再燃させると同時に、父親のDVから亡母を守ることができなかった過去を悔い、出産を控えた愛妻をいたわりつつ自分もいずれはDV夫、DV親父になってしまうのではないかと怯え……

という展開。

 

深町秋生さんの作品なので当然のことですが、警察小説としてもミステリーとしても、バイオレンスアクション作品としても秀逸。

 

警視庁の刑事と所轄警察署の刑事が駆け引きするくだりや、猛暑日がつづく真夏の地取り捜査で日焼け止めを塗り忘れた刑事が皮膚を火傷するなど、警察小説としての細部の描写が読んでて心地いいです。

直幸の妻や上司、捜査線上に浮かんだ故人の息子など、脇役たちの描写も立体感をともなっていてリアル。

 

登場する火器類のチョイスがまた、ハリー・キャラハンの愛銃であるスミス&ウェッソンM29だったり、ジェームス・ボンドの愛銃であるワルサーPPKだったりするのも、「片やリボルバー、片やセミオートマチックとはいえシングルカラムマガジンであり、どちらも装弾数が少ないという点では共通する。多勢に無勢の敵と撃ち合うシチュエーションではハンディになるだろ」と、スリルの盛りあげに貢献していて素晴らしい(M29もPPKも、主人公である直幸やその同僚刑事が警察組織から支給されたという設定ではないので、警察小説としてのリアリティは損ねられていません)。

 

警察小説ファンやバイオレンス小説ファンを喜ばせるツボをしっかり押さえつつ、『鬼哭の銃弾』が同じジャンルの他作品群とくらべ異質に感じられるのは、ストーリー全体を通し、子どもや配偶者を虐待する者たちへの怒りと嫌悪感がフォーカスされているため。

冒頭シーンでは後に起きる本題とはまったく別事件の捜査に直幸があたってますが、それからして我が子を虐待し、死に至らしめた被疑者の取調。

この巧みな冒頭シーンのおかげで、骨肉の呪縛に翻弄される日向直幸の心理へとスムーズに入り込めました。

 

もっといえば、直幸が少年時代に受けたDV被害のフラッシュバック描写の数々が生々しく感じられてしまいます。

特に読むのがつらかったのは、直幸の母の入浴中に父である繁が不意打ちのように帰宅するシーン。このくだり、思春期の直幸にとってあることがつらかったと書かれていますが、その気持ちが本当によく分かります。

テレビでスポーツニュースが流れたときなど、日常の些事にまで少年時代の記憶を喚起させられるというくだりも、読んでてかなりつらかった。

 

『鬼哭の銃弾』がほかの警察小説やバイオレンス小説とくらべ異質なだけでなく、

家父長制の恐怖をテーマにした作品としても異質に感じられるのは、

「主人公にこんなつらい記憶を植えつけたくらいだから、その父親には嫌悪感しかいだけないだろう」という予想をあっさりと裏切り、ストーリーが一筋縄で展開しないため。

特に直幸の父親、日向繁が満を持して初登場するシーン、最高に巧みなタイミングと状況設定なおかげで最高にカッコいいです。

近いうち孫が生まれる還暦を過ぎた男でありながら、逆三角形の体型と高度な戦闘術を維持し、武装した犯罪者集団を相手に単身で対等以上に渡り合う。

警察隊が到着する前に現場から逃走する手段にも意外性がありすぎて、リアリティとケレン味のサジ加減が絶妙です。

 

初登場の仕方はカッコいいヒーローキャラそのものなのに、我が子である直幸を鉄板入りの安全靴や大型懐中電灯でブチのめすだけでなく、目的達成のために亡妻を死後もなお蹂躙する行為には、『血と骨』の金俊平もかくやというほどの鬼畜っぷりを感じました。

還暦という年齢にくわえ、妻の尊厳を踏みにじる期間が彼女の死後も継続しているという点、「精神的な成長をともなわないまま強靭な肉体だけを維持する高齢者が増えるにともない、DV親父がDV親父として君臨する期間が社会で広く長期化している」という現象を違和感なくストーリーに溶け込ませる技法が巧み過ぎ、「こんなに憎たらしい登場人物を創りだすなんて……」と、深町秋生という作家に恐ろしさすらおぼえます。

 

『血と骨』の金俊平は加齢にともない、我が子を産ませるための女性探しに執着するようになったのに対し、

『鬼哭の銃弾』の日向繁は子孫繁栄にはまったく興味がない。

孫が生まれることにも喜びをおぼえず、未解決事件にケリをつけるべく犯人たちとの決闘の地へ向かう途中、パーキングエリアのトイレでは息子である直幸に対し、今どき中学生男子でもしなさそうな幼稚で下劣なマウントの取り方をする。

金俊平とのこの違いもまた、「昭和のDV親父である金俊平VS平成および令和のDV親父である日向繁」の違いがクッキリと浮き上がっていて面白かった。

人間が種を保存する手段においても、昔と今では違いが生じているのかもしれない。

 

ヒトの平均寿命が短かった時代には、自らが長く生きられないがゆえに、その代替手段として子や孫、曾孫が安寧に生きることを望まざるを得なかったのに対し、

人生百年時代が到来した現代では、子や孫、曾孫の繁栄よりも、自分自身がより長く生きることを優先させる者が増えていくのかもしれない。

再生医療が今後ますます発達し、不老不死が絵空事ではない時代が到来すれば、家族どうしや親子間の関係は今とは違う形になるかも?

この点、『鬼滅の刃』の鬼舞辻無惨が最期にとった行動を連想させられます。

自らの永遠の命に疑問を感じなかった段階では、自分の子孫を残すことになど微塵も興味がなかった。

鬼殺隊との戦いの果てに自らの命が終末を迎えると悟ると同時に、人間たちに災いをもたらす鬼のボスとしての地位を炭治郎に強引に引き継がせようとした。

 

私の解釈を基にすれば、鬼舞辻無惨と金俊平、それに日向繁がとる行動の違いはそれぞれの作品のジャンル、および上梓された時代の違いによるものであって、根底には共通点があるように思えます。

『血と骨』のラストでは金俊平の息子が「いくら暴君だったとはいえ、実の父親を見捨てた自分は冷血人間なのだろうか?」と自問し読者に苦味をもたらすのに対し、

『鬼哭の銃弾』のラストは『鬼滅の刃』同様、読者に希望をいだかせます。

とはいえ深町秋生作品らしく、最低限のリアリティは堅持している。

特に直幸のキャリアの帰結に関しては、能天気タイプのハリウッド映画によくある「上司や組織の命令にそむいたものの、事件解決に貢献した主人公が名誉に浴する」というものとは真逆。

これも深読みすれば、「直幸は繁とは違い、辣腕刑事としてではなく、良き夫、良き父親として生きていく」と暗示しているのかも。

 

 

 

以下蛇足

 

『鬼滅の刃』のワンシーンについて

伊之助が上弦の弐と対決するシーンには『リーサル・ウェポン2』のクライマックス導入口と共通点があり、読みながら興奮しました。

『リーサル・ウェポン2』のクライマックス手前、主人公であるマーチン・リッグスは対峙すべき敵が二重の意味で復讐の対象であることに気づきます。過去と現在という、二重の意味で。

上弦の弐と対峙した伊之助もまた、目の前の敵が過去と現在における二重の意味での復讐の対象であることに気づき、私に感情移入させました。

胡蝶しのぶが私にとってお気に入りキャラだっただけに、なおさら。

またリッグスも伊之助も、二重の復讐を認識する直前、状況打開のために自ら関節を脱臼させたという共通点もあって面白い。

 

『シャイニング』について

続編映画『ドクター・スリープ』のラスボスである女性キャラは、浅草に現れたときの鬼舞辻無惨のような服装であり、自分と同じような能力を持つ者たちの総締め的なポジションである点でも鬼舞辻無惨と似てます(演じるのは、ミッション・インポッシブルのパート5から7までに登場した、元MI6情報員役のカッコいい女性)。

『シャイニング』は私の解釈では『鬼滅の刃』と共通するテーマですが、『ドクター・スリープ』では家父長制の恐怖は描かれてません。

それなのに、鬼舞辻無惨に似た悪役が登場するのは面白い偶然。

『ドクター・スリープ』、クライマックスでこそ超能力バトルが展開されますが、その手前ではリアルな銃撃戦アクションがあり、「主人公も敵も超能力の使い手なのに、どうして銃撃バトルを!?」と不思議に思いつつ、ドンパチアクション大好きな私は喜んでしまいました。

まあ、主人公が仲間とともにボルトアクションライフルを使い、拳銃を撃ってくる敵たちを拳銃の有効射程距離外から着実に倒す身も蓋もない描写に笑ってしまいましたが。

 

『鬼哭の銃弾』について

DV夫でありDV親父である元刑事の暴走という点では、深町秋生さんのデビュー作『果てしなき渇き』と共通してます(第三回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作)。

『果てしなき渇き』のストーリーでキーパーソンになるのは、主人公の娘である加奈子という登場人物。

加奈子も『鬼哭の銃弾』の日向直幸同様、母とともにDV被害を受けたという設定ですが、良き夫、良き刑事たらんとする直幸とは正反対の人格。

悲劇を増殖するモンスター的存在という意味では鬼舞辻無惨と似てますが、なぜか女性ファンが多いようです。

私の身近にも、「加奈子に恋してます!」と言ってはばからず、『果てしなき渇き』を読む用と保存用の二冊購入した二十代女子がいたりと。

 

ということで、「だから何?」と言われれば、「いえ、何でもありません、すいません……」としか返しようのない駄文で、この無駄に長い駄記事を締めさせていただきます。