

織田ビル、中和ビル。港区新橋2-6。1986(昭和61)年2月2日
織田ビルの4階中央にあるのは大黒天像。黒いだけでなんだか分からないが、『異都発掘』(荒俣宏著、集英社文庫、昭和62年)の写真を見ると、金網の中に納まっている。商売繁盛の神だから置かれたと解釈できるが、やはり不思議な感じする。部屋の中に置物としておいて置くだけではすまなかったのだろうか。
織田ビルは、『 近代建築撮影日記>港区新橋界隈①』の写真では、1996年にはすでに現在のビルに建て替わっている。

甘粕ビル。新橋2-6。1986(昭和61)年2月2日
外堀通りに面して並んでいる織田ビル、中和ビル、甘粕ビルが実は「新橋共同建築」の名前で復興建築助成株式会社が造った一体の建物だと知ったのは、『 都市徘徊blog>新橋共同建築(2010.07.26)』によってだった。そこにリンクされている資料を今になって読んでみた。
『復興建築助成株式会社による関東大震災復興期の「共同建築」の計画プロセスと空間構成に関する研究』というレポートで、2006年の論文集に載ったもの。執筆者は栢木(かやのき)まどか、伊藤裕久(ひろひさ)で、東京理科大の大学院生と教授である。
ビルの平面図が載っている。3棟に見えるビルのそれぞれの敷地は3人の土地利権者の持分と同じで、共有部分はない。外観をまったく異なるデザインで建てているのだから共同建築にする意味はなさそうに思える。復興助成会社は3人の建主の建物に対する要請を全面的に受け入れて、本来の共同建築を建てようとはしていないようだ。
論文でも言及しているが、助成金を受けるために復興助成会社を立てる必要があったようだ。また、各建物の境界の壁は共有できるから個々に建てるよりは安くつくのも確かだ。復興助成会社も実績を増やしたかったのかも知れない。


1984(昭和59)年5月5日
前記論文には助成会社による共同建築の例を10件、表にして挙げている。その中に「8.京二館、4階建て、竣工=昭和4年」というのがある。当ブログの「 京二館ビル(中央区京橋2-5)」かもしれない。
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