午後二時すぎ、遅めの昼食を買いにスーパーへ立ち寄った。

曇り空で少し肌寒くて、人もまばらだった。

店内のBGMが、なぜか懐かしいフォークソングで、

買い物カゴを押す手が一瞬とまった。


惣菜コーナーで、なぜか足が止まる。

きんぴらごぼう、ひじきの煮物、卵焼き。

どれも、「おふくろの味」と呼ばれているようなもの。

でも、僕にはそれがどういう味なのか、正直よくわからない。


母はいた。けれど、「家族」としての時間は、ほとんどなかった。

食卓を囲んだ記憶も曖昧だし、

「ただいま」と言っても、返ってこない日もあった。

ぬくもりを知らないわけじゃないけど、

なぜか届ききらなかった。


だからだろうか。

「ふつうの家庭料理」に出会うと、

なんだか胸の奥がもぞもぞする。


それは憧れかもしれないし、

もう取り戻せない「もしも」への未練かもしれない。

いずれにせよ、その感情は説明できないまま、

静かに、僕の心に染みてくる。


***


人は、何かを受け取らなかったまま、大人になる。

受け取れなかった言葉、

交わせなかったまなざし、

握り返されなかった手。


けれど、それでも僕らは生きていく。

代わりに、自分でその手を握りしめながら。


スーパーで、きんぴらごぼうをカゴに入れた。

それは「母の味」ではなかったけれど、

「母の不在」と、僕なりに折り合いをつける儀式だったのかもしれない。


帰宅して、小皿に盛りつけて、一口。

遠くにあるはずの味は、やっぱり遠いままだった。

でもそれでも、

この口で生きていこうと思った。


この世界は、不完全なまま愛すしかない。

足りなさを抱えたまま、それでも、前を向くしかない。


そして、そんな不完全な僕に、

「今日もよくやってるな」と、

ひとりごとのように声をかけた午後だった。