自分で自分の髪が結えないことは、文字が書けないことと同じくらい無教養とされていた江戸時代。ですが、江戸時代も中期以降になると、髪を自分で結わない女性があらわれはじめます。それには、髪を結うことを職業とする「女髪結」の登場が関係しています。

 

髪結とは、もともとは月代(さかやき)を整えることを職業とした人のことです。本来は男性だけに許可された職業でした。斎藤月岑(さいとうげっしん)という人が、江戸時代250年にわたる地理の沿革、風俗、事物起源などをまとめています。それによると、髪結の株(=営業権)は、江戸では一つの町に一カ所、全部で808カ所に限ると定められていたと記されています。

 

そのため髪結になりたい人は株をもっている人から譲ってもらうか売ってもらうしかありませんでした。808と数が決まっているため、株の取引は高額だったといわれています。髪結の客は男性で、ほとんどが武士でした。

 

そりゃあ、そうですよね。もともとは月代を整えることが髪結いの仕事であり、月代は男性の髪形なんですから。髪結はまず、月代を剃ります。客は、その毛を小板で受け取ります。そして、剃り終わると元結を切り、髷をばらして髪をくしけずり、髷を結いなおしたんです。

 

ところが、女髪結とは、女性の髪結のことで、女性の髪を結うことを仕事としました。なぜ、女髪結が生まれたのでしょうか。

 

戯作者である山東京山(さんとうきょうざん)の『蜘蛛の糸巻』によると、明和期(1764年~1771年)に、山下金作という女形の歌舞伎役者が江戸深川に住んでいたといいます。この山下金作の役にあった鬘を用意する鬘付(かつらづけ)が、自分の贔屓にしていた遊女の髪を役者のように結ってやりました。その髪形が、あまりにも見事だったので、遊女の仲間もお金を支払ってでも自分の髪を結って欲しいと、結わせました。それが繁盛したため、ついに鬘付をやめて髪結になったという話が記されています。そして、この髪結の弟子に、甚吉という者がいて、さらに甚吉が女の弟子をとって遊女を結って回ったことで、女髪結が増えていったとされています。

 

ちなみに近代になって、もともとの月代を整えていた男性の髪結が理容師として制度化され、遊女の髪を結ってまわっていた女性の髪結が美容師として制度化されていきました。月代を剃るのにカミソリを使っていたので、今でも理容師にはカミソリの使用が許可されているというわけなんです。