影無から楠窪峠を越えて行く道を地域の人たちは「楠窪越え」と呼んでいた。
前回、影無しに来たとき、その道を上って行ったが、あたりをうろうろしながら行ってると、たちまち時間は過ぎていき陽は傾き始めたので、峠まで行かず引き返した。
今回は、楠窪峠まで行ってから後も時間に余裕をもって散策したかったので、朝早く家を出た。
志川の志古川ダム橫の道を通って、すれ違う車はほとんどないし、人も見ない山間を走り影無へと行った。
途中、手の込んだ造りの古い橋があり、欄干を見たら天流三ヶ森橋の名が刻まれていた。
渡っていくと小谷集落がある。
地図では5軒程の家があるようだ。
橋を渡らずに谷川沿いに遡っていくと影無集落に着くが、山間の朝はちょっと冷える。
手袋をしないと手が冷たい。
今年は暖冬といっていたのに、寒い。
上がっていくと車道の終点に。
石垣で囲った上に地蔵堂があり、横に六地蔵が座っている。
地蔵堂下から山に向かって古道が続いている。
そこを上って行った。
見上げると鉄製の索道がある。
まあまあ新しい索道のようだ。
小型の索道で、個人の家専用の索道なのだろうか。
屋敷内に据えているようだ。
影無は下影無とその山上にある上影無と、2つの集落からなっていて、ここは下影無だった。
下影無で見る石垣は、一つ一つの石が大きいなと感じ、逆に上影無の石垣は、下に比べて小粒の石を積み重ねた石垣が多い印象をうけた。
山間に行くと、必ずと言っていいほど石垣群を目にするが、地域によって石の大きさ、石質、積み方などいろいろ違い、見ていて結構楽しめる。
コンクリート製の土管を三つタテにつなぎ合わせ立っている。
よく見ると貯水槽のようだ。
貯水槽のそばに、鉄製のドラム缶を半分にして蓋をかぶせたようなゴンドラのような物が転がっていた。
それを見て、索道を思いだした。
索道がここにもあったのではないかと辺りを見渡すと、いかにも古そうな木製の支柱が地面に突き刺さるように二本立っていた。
それを見て、ここに索道があったと確信した。
転がる大きな鉄製の器は、水を入れその重みで下からの物資などを引っ張り上げるためのもので、水を必要とするが見渡したかぎり、水の流れている場所はなかった。
貯水槽に貯めておいた水を利用して索道を動かしていたんだろう。
上影無の人たちにとって、水の便はよくなかったようで、苦労しただろうと思う。
いまだに支柱が2本建ったままで残っている。ここに索道があり、ここから物資を上げ下げしていた。
下影無まで荷馬道が完成した後にこの索道は出来たのだろう。
それより以前は牛馬などが楠窪越えを支えていたと思う。
碍子が転がっていた。電気が来ていたようだ。
前回来た時に見た 『入定 倉光行高院位』『治承二年乙酉三月廿八日』 『曽我部禮蔵元重建之』の文字と菊の紋が刻まれた石造物を再度確認。
治承二年は調べてみると1178年、干支の戊戌の文字が見える。
院とか位との文字もある。
修験者系の僧の供養墓なのだろうか?
それにしても立派なお墓だ。
線香立て?には文久と、といし(戸石)の文字。
そして伊助の文字がある。
文久年間に、隣村の千足山戸石集落の伊助という人が持ってきて置いたのだろう。
植林された木々は、近年手入れをしてないようで、林の中は薄暗い。
陽当たり不足なのか、下草もあまり生えていないようだ。
枯れて茶色した杉の葉が一面に散らばっている。
その所々に緑色のお茶の木が生えているのがよく目立つ。
石垣を築いた上に、広々とした敷地があり、崩れた家跡が残っている。
立派な造りの家のようだ。
このあたりが影無集落の上影無といわれた集落跡あたりだろうか。
標高は5~600mといったあたりのようだ。
明治時代になり廃藩置県が行われて、戸長役場を作るようにとの行政指導があったとき、楠窪、明河、千足山の3村合同の最初の村役場が影無に誕生したとあるが、このあたりにあったのではないかと思っている。
そして明治17年まで行政の中心として機能していたようだ。
その後、千足山村は槌之川に独立して村役場が誕生し昭和19年までそこにあった。
そして楠窪、明河村両村の役場は明河の河之瀬に移転したようだ。
かつて、ここは行政の中心地であり、人の行き来も頻繁にあった賑やかな地域だったと想像するが、今は人影もなく、時々小鳥がさえずるだけの山間の森となっている。
石垣で囲んだ4m四方位の深い窪地がある。
芋坪ではなさそうだし、水を確保する池だったのだろうか。
家を壊した跡の瓦が一所に集めて積んであった。
途中に立派な墓石が有り『寺子中』の文字が見える。
石などに刻まれた『氏子中』はよく見るが、寺子中の文字は初めてだ。
寺の檀家のことをいうのだろうか?
神仏習合時代だから氏子のことかも?
だんだんと上って行くと、所々に大木が立っている。
落葉が積もり、弾力性のあるながらかな坂道をゆっくりと踏みしめながら上ったが、足裏が気持ちいいと喜んだ。
そんな古道を行っていると、どうやら峠に着いたようだ。
峠の左に手水舎がある。
表面に金と天保5年十月十日、宮地与市郞と刻まれている。
手水舎のそばに文字が刻まれた長さ7~80cm位の石板が横たわってある。
楠窪村の文字が見える。
その左に人名?が何人か書かれている。
ここが金比羅宮跡だ。
この奥に何かあるだろうか?
尾根伝いに行ってみる。
両脇に石垣が見えてきた。
石垣の間を通って奥にいくと、角が取れた石、川石?が石板の上にある。
これはなんなんだろうか。
金比羅神社参道
長い参道、50mはあるだろうか。
境内に神社の建物跡などは見なかった。
手水舎のすぐ奥の左右に四角い石積み跡が残っている。
石を積み上げた上に狛犬が鎮座していたのだろうか。
金比羅宮があるこの峠を、土地の人は金比羅峠とか楠窪峠といい、又、この峠を越えることを、「楠窪越え」といっていた。
峠には、首無しの地蔵が周桑平野の丹原の町方面に向かって鎮座している。
台座には影無村と寛政3年の文字が刻まれている。
続く。
続きです。影無しの楠窪峠
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