東京都知事選挙。現職の小池に蓮舫という構図だが、その他にも元衆議院議員の小林興起や、元航空幕僚長で政治活動家の田母神俊雄などなど50人近くが立候補するという。前代未聞の多さだろう。

 

これまで都知事選は統一地方選の4月が恒例だった。しかし2012年に石原慎太郎が衆議院選立候補のため辞職し、歴代最高得票で猪瀬が当選。その後不祥事の連鎖で猪瀬舛添と倒れ小池となった。いわば不祥事の名残なのである。

 

これまで候補者が乱立しなかったのはある意味、統一地方選によっていわ候補が全国にばらける、辞職による急な選挙戦が多かったということが大きな要因である。

 

 

候補者の多さで思い出すのが戦後すぐの衆院選。1946年の衆院選は帝国議会下で最後の選挙、大選挙区制で行われた。当時の東京2区は、品川区目黒区など東京市の3分の1程に、八王子など多摩地方を選挙区としていた。この東京2区が定数12に対し134名が立候補という大激戦。とはいえほぼ有力候補は決まっており、実質20人程の選挙戦だったようだ。

 

なぜこれを挙げるかと言えば前年に協会を廃業した元横綱の男女ノ川が立候補していたため。いわば周囲におだてられて出馬した男女ノ川。とはいえ男女ノ川こと坂田供二郎の選挙戦は順調で、講堂での演説にも聴衆が多数詰めかけるなど手ごたえを感じたようだ。共産党本部を訪問し徳田球一と握手するなど、話題も振りまいた。選挙期間中には松谷天光光から、坂田の知名度からか共同戦線を敷こうと、選挙協力も依頼されたとのこと。そのためすっかり開票前から議員気分だったようだ。

 

しかし結果は落選。惜敗ですらなかった。70位。4337票という惨敗であった。ちなみにトップ当選は加藤シズエで13万票、以下中村高一、河野密が10万票台で、4~11位は4万5000から9万票となっている。12位は法定得票に達せず再選挙という大混戦であった。ちなみに落選者の中にはのち首相の石橋湛山、作家の石川達三もいる。71位の平井義一はおそらく、のち衆議院議員で横綱審議委員会委員も務めたのと同一人。

 

 

男女ノ川の選挙熱はくじけず1949年の衆院選にも立候補、またもや惨敗し農園や貯金のほとんどを失った。というのだが今回、選挙ドットコムなどで調べたところ名前が見当たらない。本当に出馬したのか。従来より国政選挙に出馬とあり確かに1946年の選挙には氏名があるが、1949年は東京のいずれの選挙区にもない。出典は川端要壽著の「下足番になった横綱」なのだが要考察だ。

 

 

「下足番になった横綱」自体、誇張や取材不足による誤認、思い違いも多いらしく、男女ノ川の息子は出版後に事実と異なる部分について抗議の意味も含め著者に手紙を出したという。しかし小説という事でと返答があったようだ。執筆者がこう解釈するあたり資料としては二級かもしれない。

 

力士の国会議員は旭道山がいるが、元横綱と選挙。歴代横綱にはこんな自由人もいた。