初めて日本選手権の標準を突破したのが中学2年生の冬、初めて出場したのが中学3年生、初めて決勝に残ったのが高校1年生、初めて表彰台の上ったのが高校2年生。
初めて日本記録を出したのが1994年。高校1年生の冬。九州カップ、50m平泳ぎで28秒65の短水路日本記録。足の指の骨が折れていたのでブロックに足をかけられず、生まれて初めてのクラウチングスタート。それでも記録は出た。
全国中学も、全国高校総体も優勝した。
ジュニア選手としてのキャリアとしては、エリート中とエリートだったと言えるだろう。
そうなると、泳ぐことに責任が生じてきて、競技を続けるか止めるかを自分1人で決められなくなる。期待され、自分に素質があると決めつけられる。
「じゃあ、やめる」とは言えないのだ。
本当はもっと向いてくることがあるような気がしていても、やめる選択肢はない。幸運でもあり、不幸でもある。複雑なのだ。
ランニング中にトラックリストに入れている、「宇宙戦艦ヤマト」の、
「使命を帯びて、戦う男、燃えるロマン、誰かがこれをやらねばならぬ、期待の人が俺たちならば」
を聴くたびに、ジュニアの頃の心境を思い出す。